『ユーコさん勝手におしゃべり』 バックナンバー目次

9月25日
 ここのところ気候もすっかり秋らしくなった。日曜日半日かけてプランターの手入れをする。 来春を楽しみにチューリップの球根を埋め込む。秋の花壇を作るということは、「春を待つ」ということなんだなと思う。
 柴又の江戸川土手にコスモスを見に行った。私の記憶違いだろうか。それとも期待のあまりもっと大きかったと思い込んでいたのだろうか。思ったより面積が小さく、遠目でみてちょっとがっかりだった。それでも土手を下り、花々のそばに寄る。一輪一輪はけなげに咲いているじゃないか。コスモスの根元では虫の声がしている。「一面の—」というわけにはいかないけれど、花の前にしゃがんで、花と空を視界に入れて虫の声を聞く。
 帰り道、また土手の上に上ってさっきのコスモスを見る。来て一見した時よりも何だかきれいに見える。群れとしての量が少なくてがっかりしたけれど、一輪ずつを見てから再び離れて見直すと、ひとつひとつさまざまな色合いで、「良いじゃないか」と思えてくる。「がっかりなんて言ってゴメンネ」と心の中でつぶやいて、広い空を見た。
 土手の帰りはやっぱり草だんご。帝釈天の参道には10年1日のような時間が、まだある。

9月24日
 毎朝、新聞の下の方に並んでいる出版社の書籍の広告を見る。これも不況の閉塞感のせいだろうか。ハウツー的なものが多い。
「こうすれば頭がよくなる!」「これで英語はペラペラだ!」「あなたは本当はいい人なのよ」「これで本当の自分になれます」
そそる題名につられて私もつい2・3冊買った事がある。読めば「へぇへぇ、そうか」と思うところが何ヶ所かあるけれど、その時だけで、頭がよくなる方法も実践しないし、「これでペラペラ!」と言われても、溺れる者がわらをもつかむ思いでムリクリ覚えたシケ単の方が定着がよかったりする。
 結局同じような本が手を変え品を変え出続けているってことは「決定版」は永遠にないということなのでしょうか。私の個人的感想は、「教科書には全てが書いてあるけど何も書いてない。」です。何かのハウツー本は、その分野の教科書です。子供の頃学校で教科書を貰いました。教科書にはその年に習う全ての項目が並んでいるけれど、ただそれを読んでも面白くも何ともない。たとえば歴史の教科書の1ページに書いてあることをもとに、先生が声を使って、体を使って黒板を使って説明してくれるから頭に入る。ただ数字や記号が並んでいるだけの数式も、誰かが「こうやって、こうして」と手順を教えてくれると使えるようになる。教科書を眺めただけでわかっちゃう人や、その教科書と波長が合って身についちゃう人も中にはいるだろうが、たいていはそうではないだろう。だから、ただ教科書の内容を教えるだけの補習塾が町にはいくつもあってみんなやっていけているのだろう。
 以前、塾講師をやっていた時、数学が苦手でよく教科書を持って「ぜんぜんわかんない」って質問に来ていた生徒がいた。その問題を紙に書いて、ゆっくり一緒に解き、その解法の紙を見ながら彼が自分のノートにもう一度解く。「わかった、わかった」と言ってくれる。教科書に書いてあるのと同じ解き方なんだけれど、声付きで人からインプットされる方がわかり易いみたい。神通力じゃなくて、人通力だ。
 その彼がよく、「どこがわからないのって聞く先生が一番きらい」って言っていた。「どこがわからないのかわかれば、自分で教科書見て調べるよ。それ位はできるんだ。」 そりゃそうだ。どこからわからなくなったのかわかれば、自分で教科書のそのページをはぐって見ることができる。補習塾には、前の年のも、その前の学年の教科書も置いてある。わからない時には、何がわからないのかわからなくて、何だか不安なものだ。
 きっと、いろいろなハウツーものの本の宣伝文句も全部本当のことだろう。書いた人と直接のコミュニケーションがあった人には絶大な効果があったに違いない。その全てを網羅して教科書を書いた、としても、全てを書けば書く程、教科書はオーラを失っていく。それもまた事実なんだろう。

9月20日
 ここ数日秋晴れの日が続いている。秋の陽は本当に爽やか。もし秋に生れていたら、「一番好きな季節は秋」と言っているだろうと思う。朝に晩にあんなに水をほしがっていた鉢植えたちも「2日に1度くらいでいいよ」と言うようになり、季節の変化を感じている。
 近所の堀切菖蒲園へ萩のトンネルをくぐりに行った。来年を待つ静かな菖蒲田の中で、少し穂を出したススキと萩のトンネルだけが初秋を歌っている。濃いピンクに咲きはじめた萩たちに「また来るからね」と声をかけてきた。開店前のお散歩の楽しみができた。
 本当は葛飾柴又、矢切の渡しの土手のコスモスを見に行きたいのだけれど、雑事に追われて「行くぞ 行くぞ」と言いながらなかなか行けない。時間の使い方が下手で、なんて自分に言い訳してると見ないうちに花が終わってしまう。来週中には、何とか出かけたいものだ。コスモスの中にしゃがんで見たら、秋の空はどんな話を聞かせてくれるのだろうか。

9月14日
 今度これ書こう、と思ってたことが、フト見た新聞や雑誌のコラムに書いてあったりすると「あ、やられた」と思う。9月といえば「読書の秋」と安易に思う人が多いのか、最近古本屋関係の話もたまにとり上げられていて、「わ、これについて書こうと用意してたのに」という具合で昨日もおととい書きかけたネタをひとつ破りました。本にまつわることや季節の話題でそうそう突飛なことが起こることもなく、うちで起こっているようなことはたいていどこにでもあるようなことなのだなと、あらためて知らされました。
 話は変わって、脳の殆んどの部分を人は使ってないって話をよく聞く。脳は一度覚えたことはちゃんと収納している。記憶をなくしたと思っているのは人間の勘違いなのだということである。とすると、あんなに一生懸命覚えたのに今思い出そうとするとどうしてもびた一文出てこない歴史の年号や、英単語なんかも、私の頭のどこかにまだあるのだろうか。それが、ある日突然、例えば私が年をとってすっかりぼけてしまった頃にぽっかり出てくるなんてこともあるのだろうか。ずっと閉まったままで存在も忘れていた引き出しがすっと開いて、いきなりスーパーものしりおばあちゃんになったりして…。といっても、もとの記憶自体が小ネタばかりだから、スーパーにはなれないか。
 記憶といえば、何故だかどうしても覚えられないことってあるよね。自分と相性が悪いとしか思えない。他のことは生活に支障なく記憶できるのに、あることばや手順だけが覚えられない。18歳のときの私はなぜかエスカレーターとエレベーターが区別できなかった。どっちがどっちかすぐ忘れちゃう。そのことを言ったら岡山出身の友人が「こうやって覚えるんだよ」と「エ」「ス」「カ」「レー」「ター」と一段ずつ腕で大きく階段を描きながら一言ずつ大きな声で言った。それから腕を下から上へずどんと突き上げ一気に「エレベーター!」と言った。強烈な印象で私は一気にそのことばに迷わなくなった。今でもエスカレーターやエレベーターの表示を見るたびに彼女の声まで思い出す。出身地も声も、高校の時は水泳部でスタイルが良かったことも覚えているのに、なぜか名前だけが思い出せない。 今現在も、ささいなことなのに覚えられないことがある。それは、店頭の日除けテントを巻き上げる金属性の棒で、その扱いで今日も店主に叱られた。店を閉めるときこいつも収納するのだが、その時の棒の向きが覚えられない。自分でも単純な作業とわかっているのに、こいつとは相性が悪いとしか言いようがないんだなぁ。誰かまた、強烈な印象で私にそれを教えてくれないかなぁ。


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