『ユーコさん勝手におしゃべり』 バックナンバー目次

8月31日
夏がゆく。明朝カレンダーをめくると、絵柄は秋になっているのだろう。8月31日の今日が、涼しい日だったので、余計に哀愁を感じる。夏に何かを期待していたわけではないが、終わるとなると淋しいものだ。テレビのニュースは「ワイルドブルーヨコハマ」の最終日を映していた。今日で営業を終え、10月にはマンションが建つそうだ。ここで練習したというボディボーダーが泣いていた。九州の「シーガイア」のその後はどうなっているのでしょうか。
 しかし、時は容赦なくすすむ。秋は、おいしいものがいっぱい、景色もきれい。と、前向きに行きましょう。あと1ヶ月は名残りの朝顔も咲きつづけるしね。

8月29日
今日は店主不在で、1日ひとりでお店番。なにせ、店主は「人間じっと動かずにいたら腐る」と思っているんじゃないかと思うくらいパワフル。「夏なのに日に焼けてない自分なんて想像できない!」と仕事と仕事の合間をぬうようにして休暇を作っている。100パーセント仕事して、ガッチリ休む、というのが彼の流儀なのでしょう。私はといえば、仕事してても頭の何割かは休んでる様なところもあり、休暇もわざわざ夏にとらなくても取れる時でいいや、というところです。(店主の不在が何よりの休暇だったりして)

8月23日
台風が去った翌日の今日、一番の楽しみは、電車が荒川の鉄橋を渡ること。台風の翌日の土手の周辺の景色は、幼時の強い記憶のひとつだ。その頃川といえば、荒川ではなく、横浜と川崎の間を流れる鶴見川だった。その近くに住んでいた私は、台風の翌日、土手と平行して通る道をバッタやかえるが、大挙して歩いているのを見てびっくりした。増水に驚いた彼らが自主避難し、翌日また土手に帰っていくところだったのだろう。自称「虫愛ずる姫君」だった私は、うれしくてその光景を目に焼き付けた。それから、台風でうれしかったのは、普段は庭の犬小屋にいる犬が、台風の日は玄関に入れてもらえること。
 そんなことを考え、思い出しながら電車に乗ったのに…。現実は—。台風一過の強い日差しに、何気なく私が座った方の座席の日除けが下まで降りていた。小学生なら「お外が見たいの」と言いつつ、少し開けることが許されるのだろうが、自分の年輪が恨めしい。わけもなく向かい側に席を変わるのも気が引けて、無念であった。お〜い バッタよ、どうしてる〜?。

8月21日
なぜか続けて太宰治を読んでいる。たまたまここのところ読みたい本がなくて、在庫の文庫の黒い背表紙が目についたので—。
 それで、ふと、『読書感想文』ということばを思い出した。「今、何読んでるの?」と店主に何気なく(あいさつがわりに)聞かれて、「太宰治。」とスッと出ず、一瞬とまどったのだ。
 名作と呼ばれる悲劇だろうか。自分は、今、自分の年齢なりに面白いと思えば、何を読んでもいいはずなのに、心のどこかで、「今さら」とか「青い」ということばが浮かんでしまう。ある学年齢の課題図書と長年呼ばれていて、その年代が読むべきという変な観念にしばられてしまったのだろうか—。
 夏の盛りを前に、漱石の『こころ』は品切れとなった。普段店ではトンと見かけない高校生や、「子どもに頼まれて」という高校生のお母様が買っていった。 「面白かった?」と追跡調査したい。「面白くなかったんじゃない?」と推測する理由は、その後が続かないということだ。それ以外の漱石の文庫を、その高校生が買いに来ることはない。『それから』も面白いのにね—。
 自分の子供時代を思うと、読書感想文の課題図書は、いつも少し背伸びしすぎていたような気がする。そして、あの『感想文』を書かされる。感想文は、読んだら感想が溢れてくるような作品について書くべきで、無理やりひねり出しても、ひからびたような感想しか出てきやしない。高3か大学1年のとき、私の「何となくわかったような気がする」という不用意な言葉に学者の卵氏から、「世の中には、わかったとわからないしかない。何となくわかったような気がする、は、わからないと同じだ。」と言われた。モヤモヤしていたものがスッと解け、「私にはわからないんだ。だからそれについて無理に語ることなんかないんだ」と楽になったのを覚えている。 それ以来『感想文』を書いていない。『感想文』を要求されるのは、高校生まで限定だ。大学に入ると、それはレポートと名を変え、作品や作家の分析となった。「誰も、あんたの感想なんか聞いてない」ということだ。ここでまた気が楽になった。感想文をひねり出す間に、もう一篇読めるってもんだ。
 ところで、漱石に話は戻る。おもての均一台に漱石全集がのった時(立派な装丁函入で、破格の1冊300円)、買っていったのは2組とも、熟年から初老のおじさまだった。感想を聞いたら、無理やり『こころ』を読まされた高校生より有意義な多くを語るだろう。

8月16日
犬って、時々何だかとっても楽しそうに歩く時があるよね。弾むようにリズミカルで、「ああ、こいつ楽しそうだな」って思う。昨夕、近所のスーパーに買物に出た時、自転車のおじさんに連れられてお散歩中の犬の後ろ姿を見た。あんまり楽しそうだったので、思わず土手までついて行きたくなった。
 8月も後半に入り、朝夕は随分涼しく過ごしやすくなった。うさぎは抜け毛が激しい。いつの間にか秋を感じて、もう冬毛をはやそうというのか。室内飼いで窓からの風しかあびない。外へ出たこともないのに、きっちり四季を知る、それも、人間より早く—。生き物の不思議を感じる。彼はやたらと新聞紙を引きちぎり、自分のトイレの周りにつめこんで、自分で作った巣に満足そうだ。楽しかったり、満足そうだったりする動物の姿をみて、自分を慰めている。「何が」とはいえない自分への不満がわきたって、故なく不機嫌になる季節の変わり目。

8月11日
夕べ暗くなってから花に水をやった。よく見えなかったので、植木鉢をずらした時に枝を一本切ってしまったような気がしたが、たいして気にせずにいた。そして今朝、外に出ると道に昨晩切った感覚のあった枝が落ちていて、しかもいくつも花をつけていた。後悔した。今朝咲くつもりだったのに急に折り取られ、それでもがんばって咲いたのだ。とても踏み潰して通る気にはなれず、謝って、水を入れたコップにさしてやる。明日の分のつぼみもふくらませている。青いかわいい花だ。お水が大好きで、水をたっぷりあげた翌日はたくさんの花をつけ、乾燥するとすぐしょげてしまう。 花をめでる余裕に「平和」を思う。…実は、2・3日前に新聞で読んだ1945年の日本の平均寿命が頭から離れずにいる。男23.9歳、女37.5歳だった。今でも、そんな地域があるのだろう。たまたま自分は今、ここに生まれて、この偶然を、どう生かせばいいのだろうか—。

8月6日
日本は小さい国だ。と、地球儀を眺めればそう思う。でも、実は広い—。緯度とか地形とか海流とか風向き、いろんな要素がからまって、いろんなことが起きている。書籍代の振替票の通信欄を小さな窓として、日本中をちょっぴり覗くことができる。8月に入って、東京はいくらかすごしやすくなったけれど、岐阜からの便りには「昨日は40度でした」とあり、北海道常呂郡から冷夏の知らせが来る。「例年になく厚い雲にさえぎられて 連日20度以下の涼しいというより寒い日を過ごしています。秋の実りが充分なものになるかどうか少し不安な気候です。」と書いていただいて、自分の想像力のなさにあきれる。テレビのニュースが猛暑を伝えていて、おまけに自分の住んでいるところが暑いと、「日本は暑い」と思い込んでしまう。 この小さな国土はなかなか奥深い—。
 「まだまだ暑さが続きます」ときかされて、思いもつかない”秋”ということばは、北の方から少しずつ、待機をはじめているんだろうか。

8月3日
作家原稿が紙袋に入ってやってくる。「はいこれ、しまっといて」とホイと手渡されると、「ひょえ〜、私に渡さないでくれぇ」と思う。私は自分の手に自信がない。よく茶碗を落とす。先日も店の鋏を床に落としてしまって、顔面蒼白となった。「器用」を看板にしている店主には、どうしてそんなことがおこるのか、どうしても理解できないらしい。取り返しのつかない原稿は「開けてみてみろよ」と言われても、自分が何かしでかすんじゃないかと心配で、そっと覗くだけにしておく。
 その点、すでに額装されているものは安心だ。今、店には、ネットにも出してある直木三十五(書いた当時は三十三)の芥川龍之介宛書簡がかかっている。おもしろい。
「…仇討物語集の序文として 何か少々 巻頭を飾る光栄を有したく 至急--なるべく--御配慮願えれば…」 と、微妙な気の使い方が微笑みを誘い、日付 署名のあと、追伸で、
「…プランタンへきてくれと 銀座で今君の話故 出向いたけれど居ず 近頃のゴシップ種 残念至極」 と書かれて終わっている。雨の中、下駄履きで待ちぼうけをくわされた作家の姿が浮かんでくるー。

8月2日
「古き良き古本屋」 ステレオタイプな言い方で、しかも実態がよくわからない言葉だが、新古書店やフリマ的オークションサイトが盛況になってから、ときどき見かけるようになった表現だ。いままで意識した事もなかったけれど、昨日送本の準備をしている時、「こんなことをいうのかな」と、ふと思った。
 店舗にある本に買い手がつくと、書棚から抜かれて本は店主のもとへ行く。すんなり梱包される優等生もいるけれど、そうでないものもいる。パラフィンをかけなおしてもらったり、帯の切れそうになっているところを裏打ちしてもらったりする。古い本なんだから何をしても新しくはならないんだけれど、その本なりのベストの状態で渡したいんだ、という店主の気概が伝わってくる。年代が古くても状態のいい本は、それほど手はかからないが値段もいい。だから時間をかけてかわいがっている(ように見える)本はたいてい数百円のものが多い。
 時代は、早く、手軽に、便利にという方向にガンガン進んでゆく。
「古き良き古本屋」 そんなものがもしあるとしたら、そしてその範疇に青木書店がもし入っているとしたら、やがて、消えゆく運命なのだろうか。陽気な店主の、器用に動く太くしっかりした指に、ちょっぴり哀愁を感じた。


2001年7月のユーコさん勝手におしゃべり
2001年6月のユーコさん勝手におしゃべり
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