12月30日 今朝プランターに水をやった。冬は水遣りの回数も少なくなる。何でも今年最後かと思うと感慨深い。チューリップもクロッカスも、「よく芽を伸ばしているね」と、たっぷりほめてみる。道で時々会う近所の知り合いに会った時も、いつもと違うそれなりの挨拶をする。「また、来年もよろしく」とか「またひとつ歳をとっちゃいますね」とか(同年代の場合のみ使用可)。 この時期、頭に浮かぶのは、大好きなこの一句。 去年今年 貫く 棒の如きもの (高浜虚子) 「こぞことし つらぬく棒のごときもの」と唱えて、また1年、私なりに過ごそう。 12月22日 きのう、東京に初雪が降った。と言っても、雪の姿をしかと見たわけではない。降り始めたとき、たまたま外に出ていたが、雨か雪か見分けられなかった。その後室内に入り、しばらくして外に出たが、白くつもるような雪ではなかった。ただ、雨じゃないぞというのは、人の足跡が濡れた地面にしばらく残るかんじと、傘にあたる音が雨より強いことでわかる。雨より雪の方が重い気がする。昼過ぎ、テレビでは都心に降る白い雪を映していたが、窓を開けて外を見ることもなく、夕方外へ出たときにはもうやんでいた。ちょっとあっけない初雪が去り、今日は美しい晴天であたたかい。昨日室内に入れた折鶴蘭を、また外に出した。去年は寒くても元気そうにしていたので、外に出しっぱなしにしておいたら、2度の雪にあって枯れてしまった。その反省の上に今年は、夏の間に大きく育った彼のために天気予報をチェックしている。 先日本を送ったお客様からメールがあり、山口の様子を教えたいただく。「山口は盆地で冷え込みますが、少し走って日本海に出ますと、水仙が今盛りです」と。 ああ、想像が膨らむよ。一面の水仙はかわいいだろうな。水仙は外が似合う、と思う。室内にはあのかわいい顔に似合わぬ妖艶な香りが強すぎる気がする。例えば庭にちょっとあると、「ああ、確実に、必ず、春が来ると、この子が予言している」と感じさせてくれる。 1通のメールで、見てきたような気分になった。日本海の水仙と教えてくださったお客様にありがとう。 12月19日 ラジオの天気予報が、「金曜日は、冷たぁ〜い雨か雪、という予想です。」と感情をこめて言う。冷たぁ〜い雨と雪なら、雪の方が気温は低いはずだが、冷たぁ〜い雨の方が寒い気がする。思い込みというのは不思議なものだ。 見本となる写真を見ながら、料理を作る時、頭の中はもうすぐできあがる写真のごちそうにワクワクしている。だがしかし、時としてオーブンやお鍋から現れ出でたそれは、「○○の素」の袋や料理の本の写真のそれではない。頭の中のごちそうに逢えなかった私の落胆は大きい。もし万一それが、味的には美味しかったとしても、幸せより不幸が重く感じられる。そんなこともあって、「今日はがんばって料理しよう」と思っているときでも、「何作るの?」と聞かれるのは嫌いだ。料理名を言った時点で聞いた人にはそれなりのその料理のイメージが浮かぶでしょ。そしてそれは私のとは違うかもしれない。だから、極力料理名は言わない。どうしても言わなきゃならない時は、「ローストポーク・ブラウンソース(イメージ)」のように「かっこイメージかっことじる」を使っている。スーパーの広告にヒントをもらった前もっての言い訳だ。もちろん出来上がりが自分のイメージどおりだったら、その日は一日、うれしい。 12月17日 今は使わないけど、いつか使うかもしれない、と思ってとっておいたものが、実際使われる確率って、どれ位なんだろう。 今日大量のごみを出しながら思った。予想では確率はかなり低い。本当に必要なものは、「とりあえず」どこかにしまい込むということなしに、使い易い所や忘れない場所に置くはずだ。私の場合、「とりあえず」入用になるまで邪魔にならない所へ置かれたものは、片付けのたびに邪魔になり、何度か場所を移動した後、使う気にならぬ程ほこりをかぶって捨てられることが多い。そんなものが、年を経るごとに増えていくのかな、と思うとゾッとする。でもその反面、いろんな体験をしたしるし、と思えば楽しい。もしそれが、2度と役にたたないことであっても。まわり道の多い生活だ。ひょっとしてまわり道しているうちに終わってしまうのかもしれない。 12月10日 東京駅の斜め前にある八重洲ブックセンターへ本を買いに行く。急ぎの用がなければ東京駅へ行くのは楽しい。電車からホームに降りコンコースへの階段を降りる途中から頭を切り替えて、「ここは外国」と思い込む。階段を降りると広いコンコースに様々な『東京みやげ』の売店が並んでいる。「え、これのどこがTOKYO?」「こんなの食べたことないよ」という東京銘菓の店を、異邦人気分で眺めつつ、ローマ字標示を目で追いながらGINNOSUZU-WAITING PLACEへ向かっていく。ずらりと並んだ長距離列車や新幹線の行き先標示も見ているだけで旅人になれる。八重洲口は地上に出るとすぐ長距離バスの乗車場で、たった一段ステップを登りそれに乗ったら旅行者になれると思うだけで楽しい。自分が異邦人だと思い込めば、案内ガイドが全て日本語だというだけでドキドキする。 自分のために何冊か本を買って、帰りは、長距離バスから降りた人やこれから新幹線に乗る人たちに混ざって、バス乗り場の前のカフェでお茶を飲みながら買った本を眺める。またにぎやかで長いコンコースを通って、山手線のホームに着くまで、何度もキョロキョロまわりを見渡し、たぶん私はニコニコしている。 12月8日 重い。新聞を読んでも地元の街を歩いていても、空気が重く感じられる。夏が終わって、戦争がはじまり、いくつも会社が倒れた。TVは食べきれない程食べる人たちを有名人に押し上げている。『癒し系』がキーワードとなりテレビでも本でも『癒し系』だった時もあったけれど、もう終わった気がする。自分だけが癒されて、自分だけを楽しませて生活している場合じゃないということか。 春の美しさにうかれてノーテンキにはじめたこのページであったが、12月に入って、一週間書けずにいる。ここ数日急に寒くなってきた。堀切菖蒲園の池に行ったが、亀の姿はもう見えなかった。冬眠に入ったのかな。東京にもシベリアから渡り鳥が渡って来始めたと新聞に書いてあった。水辺の主の交代だ。空気が重いなんて嘆いて、自ら暗くしているのは人間だけなのかもしれない。自分も自然の一部だと思えば、四季の移ろいは何百年もかわらない。 ノーテンキをコンセプトとしてはじめたこのページだもの。これからもノーテンキであることをひとつのスタイルとして続けていきたいものだ。軽い思いつきがたくさんある日々は、おもしろい。時代がどうでも、小さな何かを見つけて自分を楽しませられる人でありたい。どんなささいな問題にも、全員が幸せになる結論はない。それをいつも念頭に入れつつ、それでもどこかにいつも喜びを感じて、それを誰かに伝えていけたらと思う。 2001年11月のユーコさん勝手におしゃべり
|