10月31日 鏡の前で「シー」と言って「チー」と言ってみる。唇の形は同じなことを確かめて、自分の舌の位置を確認する。「ヒー」と言ったり、「シー」「チー」と言ったりして唇の変化を観察し、10分ほどを楽しく鏡の前で過ごす。 この音の違いをうまく言い表わすにはどうしたらいいか、例えば日本語を母国語としない人に伝えるとしたら…と想像してみる。「音声」に興味がある。外国語や方言のまねっこをして、唇から出てくる音で遊ぶことが時々ある。 学齢期の子がよく、「そんなことして何になる」とか「こんなの覚えても将来何の役にも立たない」って言うけど、役にたたないことの方が面白いってことよくあるよね。役にたたないことをして、時間を過ごすのが一番贅沢な時間の過ごし方だから。 10月27日 今季初めての風邪をひいた。いつもは少なめの睡眠時間で日々を過ごす省エネ型の私だが、夕べばかりはたっぷり眠った。9:00〜9:00まで12時間、夢もみず、一度も起きなかった。多少のことなら寝れば治る健康体に感謝。ただ3日越しの偏頭痛だけは残っていて残念。 朝起きて、窓から外を見て、何を着るか考える。朝晩急に寒くなったが、昼間はまだあったかいので、着るものに困る。3・4か月ほど前には暑さで、何か着ること自体がイヤで悩んでいたのに、地球はまわっているのだと実感—。 10月25日 前々から、ずっと気になっていたことなんだけど、今朝メールを開いて、お客様からの注文フォームを見て、確信した、「きっと何か、法則があるに違いない」と。今朝開いたメール、つまり昨夜未明に出された書籍の注文がすべて、大阪・兵庫発だった。何故か東京とその周辺だけの時もあり、北海道行きが半分を占めるときもある。本を買いたくなる気圧とか、何となく青木書店を覗いてみたくなるお天気とかあるらしい。地域はばらばらだけど、注文された方のお名前の一部や漢字の一文字が一致してるメールが続けて来たりすることもあり、「今日は○○さんの日」なんてひとりで勝手に名づけたりしている。郵便局の振替入金票にも不思議な一致があり、50音順の早い方の苗字ばかりの日があるかと思うと、その逆の日もある。姓名判断による入金したくなる日っていうのがあるのかしら、と思ってしまう。こういう偶然の一致的なものをセッセと集めて、分類していくと、占いというものが出来るのかしら。もしかして学問の一部も、こんな些細な好奇心から調査が始まったものもあるのかもしれない。これで統計を取る根気は私にはないけど、こんなことで面白がっている自分が面白いのであった。 10月17日 今晩から『吾輩は猫である』を読もうと思ってワクワクしている。きっかけは、店の外の均一台に出す古い夏目漱石全集の検品をしたことである。本を函から出し、1冊ずつパラパラめくっていたら『吾輩は猫である』の巻の最期に鉛筆で 「夏目サンハ猫ヲドウシテ 最后ニ殺シタノダラウ 一月二十三日」 と書いてあったからで、他の巻にはさまっていた葉書や、当時の広告から、前の持ち主に妙に親近感がわいてしまい、この一文を読んで「吾輩は猫であるを読もう」と強く思った。 この本の刊行は昭和三年、1篇の小説を通じて、昭和三年の文学青年と交流している気分である。 10月16日 今日クロッカスを植えた。手品師がタネをしこむように春を埋めている。自分で埋めておいて、やはり芽が出たり、つぼみを持ったりすると、「わ、春がきた」と感激したりするのだろう。 「季節のかわりめ」という言葉をよく使うけれど、日本という国は12ヶ月の間に四季がめぐっている。秋といってもその中に初秋とか晩秋という時期があり、季節のかわりめでない時の方が少ないのかもしれない。みんな次の季節が順番どおりくることを、見越して、そのことに期待して暮らして来たんだな。大昔からのその期待と準備の大きな流れの中に私もひとつ加わらせていただこう。 10月9日 今日、一番うれしかったことは、いつも駅前にいる野菜の行商のおばさんのエプロンが、赤とピンク、白の格子でとてもかわいかったこと。ほんのちょっとしたことが、いつもと少し違うっていいよね。 子供の頃、母の日か母の誕生日に、近所の洋品屋さんでエプロンを買った。柄も色も忘れてしまったけれど、自分としては選びに選んだものだった。母は「ありがとう、でも私には派手すぎるよ」と言った。結局着てもらえなかった。母の30代の子だった私は、そこにいる自分の本当の母のためではなく、自分の思い描く母—もっと若くてかわいいお母さん—のためのエプロンを買ってしまったのかもしれない。きっと、たぶん、彼女の趣味美観に合わないものだったのだろう。でも、悲しかったな。このエピソード、彼女はもう忘れているに違いない。やられた方は忘れられないけど、やった方はケロリ忘れてるなんてことが、世の中にはたくさんあるんだろう。立場を逆にしてきっと自分も、自分では忘れているひどいことをたくさんしてきたはずである。 めまぐるしく世情が動いている。こんなとき、一番多く欲しいものは情報だ。しかし情報ほど恐ろしいものはない。争いあう二方のうち一方の主張を聞くと「その通りだ、筋が通っている」と思える。そしてもう一方の主張を聞くと「その通りだ、よくわかる」と思える。情報は集めれば集めるほど、どちらか一方が絶対、なんてことは言えなくなる。もし、どちらか一方の情報しか入ってこないように操作されてしまったら、または一方の情報しか信じないような自分になってしまったら、と思うと、それが一番恐ろしい。 「自分の言うことは絶対だ。一生俺についてこい!」ということばが、この世で最も信じられないことばである。 10月5日 チューリップを植えるぞ、と決意してから数日が過ぎた。その間、雨が降ったり、天気がよすぎて堀切菖蒲園へふらふら出かけたりしていたが、昨日とうとうプランターいじりをした。ほんの小さな空間だが、土に肥料を混ぜ、少しでも多く陽にあたるように鉢の置き方を工夫したりしていると、来年も春がやってくるんだなという喜びが満ちてくる。今まで網に入っていた球根は、もう、土に植えられたことに気づいたかしらん。 10月3日 さあ、なんていい天気なんでしょう。萩のトンネルをくぐりに行きました。 先週テレビで「向島百花苑の萩のトンネルが見頃です。」と言っているのを聞いて、近所の菖蒲園のも咲いてるなと思い出かけた。手入れされ来春をただ待っている静かな菖蒲園の園内をぐるっと廻り、萩のトンネルへ入る。ほんの数メートルだが、トンネルの中は別世界だ。全体としては「萩のトンネル」だが、一つ一つの花はそれぞれ繊細なつくりで、それぞれ美しい。何かの物語の主人公にでもなった気分でトンネルをくぐり、大きな亀のいる小さな池を観察する。この小さな旅にはまって、今日で菖蒲園参りも3回目だ。1日目・2日目はただひたすら静かだったが、今日はたくさんのトンボが群れ飛んでいた。とんぼの中を歩くのも素敵、と上機嫌でトンネルへ行ったら、萩は既に先週の盛りを過ぎていた。昨日の続きの今日なのに、私は何も変わっていない気がするのに、少しずつ季節が動いている。いい事に気付いて、今日は得した気分。 2001年9月のユーコさん勝手におしゃべり |