ユーコさん勝手におしゃべり

5月25日
 快晴。いろは坂は黄緑。
 今日は、今年はじめての奥日光だ。車は田植え中の田んぼを見ながら走行。ふもとの街はすっかり晩春だ。いろは坂を登りはじめると木々の色が一気に若くなる。紅葉する落葉樹が多いので今はみんな黄緑。奥日光に到着する頃には、すっかり東京の気候から2ヶ月程タイムスリップして、早春の花をもう一度みる。民家の庭にはムスカリやチューリップが咲いている。ヤシオツツジが満開で、桜は終りかけでちょうど葉っぱが出てきたところ。道の脇にはすみれ草がいっぱい。常緑樹の緑と新緑のコントラストはみごと。中禅寺湖畔のいつものお店で昼食をとる。店の奥さんが
 「今の山はいろんな緑でいいですよね。もう少したつと、みんな同じ緑になっちゃうから」
とおっしゃる。このお店、定食もおいしいし、ことばもおいしい。
 湯の湖まで登ると、新緑も出ていない木がある。でもよく見ると、小さな芽がついている。深緑・黄緑の中に、葉の出ていない木の木肌色もまじって色のコントラストはさらに増える。湯の湖はせいせいと静かで、無言の釣り人の姿が絵になる。
 帰り道、途中で車を止めて戦場ヶ原を少し歩く。修学旅行の小中学生はもういなくて、見渡すかぎり戦場ヶ原しかない。学校の移動教室で来た時は、この感動を何も感じなかった。やはりここは、前の人の背中ばかりを見て歩くところじゃない。足早に通り過ぎたり、気になるところでしばらくとどまって見渡したり—。 集団旅行で来て、「つまらん所だ」と思った経験のある方はぜひ、一人か気のおけない少人数で足を運んでみてほしい。どの季節も季節なりの幸せを与えてくれるから。

5月24日
 今朝は天気が良かったので、菖蒲祭の準備が進む堀切菖蒲園へ行ってきた。菖蒲田は最初の一・二輪が咲いている。気の早いカメラマンを数人見かけた。園内はお客さんより作業の人の方が多い。松の剪定、下草刈りに忙しい。きれいに刈られた木々に刺激を得て、私も店に帰って、花の終ったジャスミンやさつきを剪定した。
 開店して、いつものように書籍データをパソコンに入力。店のパソコンはすっかり古本屋に慣れ、変換もスムーズになった。でも時々笑わせてくれる。昨日あるサイトをみたら、書籍の発行所が「印刷時放射」となっていて(正しくは「印刷時報社」さん)、「あ、同じ変換してる」と先日のことを思い出した。食文化の本の仕事をしていた時、出版社を入れたら、「婦人が放射」と表示された。「婦人画報社」と直したが、2度目も最初に「婦人が放射」と出たので、思わず「何を?」とパソコンにつっこんだ。
 変換ミスといえば、以前、当店青木正美から店へワープロ書きの手紙が来た時、自分で打ったワープロ文が朱で校正されていた。ちょうど次の本の校正をしていると聞いていたので、その手紙を見て「校正病だ」と誰かが言った。でも、直してあったのは、急用と休養の間違いだった。ここまで意味が違っちゃうと、やっぱり直してもらわないと対応に困る。日本語は同音異義語が多い。データアップの前にはよく確かめないと、と、自らも戒めました。

5月21日
 店の前の道路に電柱がある。ちょうど店の三階の窓を開けると2mほどの道をはさんで目の前に変圧器がある。今朝その変圧器の下部にすずめが出入りするのを発見した。よく見ると金属パイプの先端から巣材とおぼしき草がはみ出ている。うれしさが腹の底からこみ上げてくる。数年前にここにすずめが巣をつくり、一家の様子をそっと覗かせてもらっていた。しかし、ある日カラスがやってきて、勝ち誇ったように電柱のてっぺんで鳴いたかと思うと、それからパッタリ一家の営巣はなくなった。次の年も空き家—。その次の年は、のぞきに来たすずめがいたもののカラスに見つかり、その声に驚いて退散—。今年はどうやら巣材運びまではいっているらしい。「どうかうまくいきますように」と、久々に晴天となった5月の空に願ってみる。

5月17日
 田植えの終った田んぼに、山藤、つつじ、たんぽぽにハルジョオン。北関東の野山は、人様の庭といわず道端空き地といわず、どこも花と緑でいっぱいだ。今年は雨がちの5月で少々不満だったけれど、このしっとりとした気候が日本の大地にもたらす多大な恩恵を考えると、雨に文句は言えない。

5月16日
 純白のジャスミンが満開になり、赤いミニバラが咲き出す。そして5月はなかばになった。が、今年はどうも雨がちで、心わき立ち風薫るという具合にならない。
 今日も休みをとって東武特急スペーシアに乗ってはみたが、車窓の景色はやはり雨、である。雨の鬼怒川、明日に期待、なのであった。今春ふらふらと出かける日が少ないおかげで本を読む時間が少し増えた。
 本を読むことについて、古本屋をやっていてよかったな、と思うことのひとつは、身近に自分と反対意見の本がある、ということだ。耳触りのいい意見ばかりをきくのはフェアじゃない。しかし、売り上げを伸ばして○○の本が「○万部」売れたと宣伝されて、自分と意見が違う○○の支持者の数に入れられるのは本意ではない。そんな時、ちょっと前のその著者の本を手に取る。(古書は売上部数にカウントされないからね) 同意見にはなれなくても、その人がなぜそう思う人になったのか、何がその人をつくったのかを知りたい。最初抵抗を感じても、一冊読めばわかることもある。例えばTVは、その時TVが悪者にしたい人を悪者にしたてすぎる。いかにもその人がいいそうなセリフだけをつまんで、何度も流す。それはその人の全てじゃないはずで、簡単にTVに同調して批難するのも悔しくて、本を読むこともある。
 中学生のとき、社会科の先生が、「社会に出て、上司から一方的に怒られる時があるかもしれない。その理由がいかにも理不尽だと思っても、すぐ反発しないで相手の言うことを聞いてみろ。そして『そういう考えもあるのか』といったんは受け入れてみろ」と言った。前後の話は覚えていないが、そこのところだけ妙に印象に残り、たぶん、実践している。
 そのことでプラスだったことは、すぐには腹がたたなくなったこと。マイナスは、素直にケンカができないこと。相手の論理を受け入れて、「ああそういう考えもあるのか」と自分をのみこむ時、ガッツリケンカができる人がうらやましいと思うことがある。
 …今、スペーシアの車内でこれを書いているのだけれど、どうやら雨は上がっているようです。明日は茨城にまわってひたち海浜公園のお花畑を歩けるかな。今回の旅のお供はドストエフスキー『貧しき人々』。昭和45年の古い旺文社文庫で司修の1ページ挿絵がとてもこわくて、ページをめくって出てくる度にドキッとします。訳者や挿絵で本を選べるのが、古本屋をやっててよかったことのもうひとつ、かな。

2006年4月のユーコさん勝手におしゃべり
2006年3月のユーコさん勝手におしゃべり
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