ユーコさん勝手におしゃべり

10月28日
 今年の紅葉は遅め、というので例年より一週間遅れで紅葉ツアーの計画をたてた。群馬四万温泉-金精峠-奥日光のおなじみルート。今回は四万温泉の前に野反湖へも寄った。
 東京は雨が多い年だった。特に10月に入ってからは雨天続きで、庭の花壇に水遣りをした日は数えるほどだった。同じ関東圏内だから、お気に入り紅葉ルートも日照不足のせいか不調なようだった。紅葉が予想以上に遅いだけでなく、緑のまま枯れている葉も多かった。それでもシーズンまっただ中で人出はいっぱいだ。団体旅行のおば様たちののどかな世間話に耳を傾けるのも楽しい。
 露天風呂では、色づいたけやきやもみじの葉と一緒にご入浴。湯舟の脇に、椿の最初の一輪が咲いていて、うれしい。天候不順に文句をつけても仕方がない。天気だけはお天道様が決める。手出しも口出しもできないのだから、ありのまま受け入れて、いいとこきれいなとこを探すほうが得策だ。ダメだなんていったって、「あっ」と息をのむ程きれいなグラディエーションをみせる木は、ちゃんとあるものだ。
 四万で一泊しての帰りがけ、毎回立ち寄る中禅寺湖畔のごはん屋さんで、「今年は色づきが悪いようですね」って話していたら、奥さんが「そう。昨日来たお客さんなんか、わざわざ来たのにっておこってましたよ」とおっしゃった。TVと違うとおこっても仕様がないのにねぇ。でも、季節のものだからってこれでもかとあおるTVの旅番組の罪は小さくないとも、思う。
 去年と同じ順にカレンダーの月日はすすむけど、去年と同じ今年は無い。
 そういえば、最近聞いたことばに印象に残っているものがある。りんご農家を46年やっている66歳、たまたま見たお昼のTV番組でのリポーターとの会話。
 「何年位りんごつくってるんですか」
 「46年になるねぇ」
 「ベテランですね」
 「イヤ、ベテランじゃないよ。だってまだ46回しか収穫したことないんだから」
 同じサイクルで回り、でも毎回違う46回の季節の巡りを自然と一緒に生きてきた人の、謙虚で、美しいことばだった。

10月22日
 前回のおしゃべりでも書いた大勝軒へお昼を食べに行った。店に入ると小学校中学年低学年園児の兄弟とその両親と思しき一組が座っていた。大勝軒に子ども連れなんて珍しい、と思って、今日が土曜日なことに気付いた。いつも平日の昼間に来るので子どもはいないのだ。女性の姿も殆ど見ない。大勝軒のカウンターというと、「男」のイメージだ。しばらくすると先客の家族にラーメンがやってきた。私からは彼らの背中しか見えない位置だったが、音は聞こえてくる。
 「ズルズル、プッ」
 「チュルチュル、ツッ」
 小さな子が麺を食べる音を久しぶりに聞いた。大人との違いは、さいごの「プッ」や「ツッ」だ。さいごの「プッ」は、ズルズルのあと少し口から出ている分をすすり上げる音で、これをやると、汁がとんで服を汚したりするので、大人はやらない。服もテーブルも汚さないように自制して食べるのだ。他の大人の客から聞こえてくるのは「ズルズル」だけだ。「ズルズル、プッ」という3人の規則正しい音は、想像力をかきたて、口につばがたまってくる。水を飲んでごまかす。私の前にもあつもりがやってきて、いつも以上にうれしく、ものも言わずに食べた。私のたてる音もズルズルだけ。全身で食べる喜びをあらわすような、口元が踊るようなあんな食べ方は、もうできない。
 彼らが食べ終わり席を立った。お母さんが
 「すいません、ちょっと残しちゃって」 と言うと、店員が、
 「持って帰ります? 焼そばにできますよ」 と、手慣れた感じでビニール袋をとり、つけ麺の麺を入れて手渡した。下の子が「お持ち帰り?」と聞いた。
 何かいい日だった。

10月13日
 ついに秋用プランター入荷の日だ。注文から一週間、待ってる間に夢は随分ふくらんだ。春を埋め込む秋の新プランター七台。
 園芸屋さんに行く前に足立都市農業公園へコスモスを見に行く。荒川土手に肩ほどの高さのコスモスが並んでいる。さまざまなピンクに揺れるコスモスを見るとなぜか、裸の若い女の人を立たせたいと思う。女性の鎖骨あたりの丈だからかな。それとも幼い頃に写真か映画で見たイメージが、コスモスと共に戻ってくるのかな。自分の中ではとても具体的な図で、不思議な衝動を感じる花だ。
 プランターを手に入れて、ビオラと小輪のパンジーをみつくろう。車に満載して、向かうは大勝軒。昔、椎名誠氏の本で讃えられていた頃は池袋にしかなかったけれど、今はのれん分けされて各所で食べられる。うちの店から車で10分くらいのところにも一軒あって、最近すっかりはまっている。あつもり(麺もスープも熱いつけ麺)で腹ごしらえ。大勝軒のラーメンは腹持ちがいい、これで夜までずっと外作業してもへっちゃら。今日の作業が終れば、次の狙いのビオラ品種が入るのは11月になってからだ。京成バラ園へ行って香りを満喫し、紅葉旅行にでかけて気分を盛り上げ、待つことにしよう。

10月8日
 記名と署名の間には、大きな差がある。記名は本に前の持ち主の名前が書いてあって古書としては大きくマイナスだし、署名は功成り名遂げた著者のサインで、年代によって心持と共に書体も変っていたりして求めるファンも多い。でも、古本屋作業の中で記名と署名の深い河に橋がかかっているのを見ることもある。
 以前、店主が古書市で古い外国文学や戯曲・演劇論の一山を買ってきた。手入れをして値をつけようとして、がっかり。鉛筆による線引書込みの本ばかりだったのだ。ちょっとした校正ミスや誤訳(と本人が思ったもの)が許せない性格らしく、細かくチェックしてある。自分の意見が著者と違うと反論を書き込んだりもしている。
 「これも線引だ、だめだな。これなんか名前まで書いてあるよ」と最後の頁にある記名を見ると「東京大学文学部 ○○××」と名前が書いてある。
 「○○××?!」
今まで見た本に書き込まれていた字と同筆跡の文字で記名がある。「本当に○○××が勉強した本か?」と話しながら作業する。たとえ本当に○○××の持ち物だったとしても記名とサインは全然違う。記名線引本は格安だ。同姓同名の人だっているだろうし本人である証拠も無い、と、思っていたら作業が進むと証拠は続々出て来た。本の年代が新しくなるにつれて、○○××の弟子筋の人の本が多くなり、見返に「○○××先生へ」とか「○○××様恵存」という著者の献呈署名本が出てきたのだった。「この本を推薦します。読んでみてください」という有名女優さんから○○××さん宛の手紙がはさんであるものもあった。
 しかし彼は弟子の書いた本を目を細めて優しく見るだけの人ではなかった。厳しく誤訳(と彼が思ったもの)を直し全ての年号表示を自分の主義に合わせて直し、反論していた。学生時代と同様の筆跡で。それらは皆「献呈署名入り 線引・書込」本となった。一括で山となっていた時点ではそれは「旧○○××蔵書」だが、古本屋はそうしておいても商売にならない。それぞれ本ごとに別々の分野に分けられ、皆書棚に納まった。
 時々、その特徴のある鉛筆の線引・書込のある本を購入するお客様に個人的に「この書込みは○○××さんの手によるものです」と小声でお伝えする。
 でもそれが、プラスなのかマイナスなのかは、わからない。

10月7日
 手指を荒らし、腰酷使。 それでも途中でやめられない。
 ちょっとプランターを入れ替えるつもりが、気付くと店の横の小庭大改造となってしまった。
 以前いくつか購入して気に入ったファイバークレイのプランターを買いに行ったが数が揃わず、入荷待ちで1週間ほど庭仕事は中断となった。ちょっとがっかりだが、ちょっとホッとした。軍手をはめて作業開始しても、工具を持ったり細かな剪定をするたびにはずしていると、つい後半は素手になっていて、手先の小さい傷が痛かったのだ。休憩休憩。
 プランターが来るまでに、花色の配置でも考えよう。
 数年前、ある店で、「当社が今回日本初輸入したんですよ。他店にはありません。」と言っていたファイバークレイのプランターが今年は、どこでも買えるようになっている。
 誰にも言わないけど、なんかちょっと最近の自慢である。

10月4日
 「秋雨」ということばを今年初めてきいた。
「秋雨かあ、これは温泉だな」
 盥と行水が結びついているように、秋雨には温泉が似合うでしょ。
 各地の紅葉見頃予想も出揃って、心は早くも旅の空。
 でも、その前に、秋の花壇作りが待っている。こちらも心躍る作業だ。今年は残暑が長く、園芸店の秋物の入荷が遅れている。夏の終った宙ぶらりんのプランターを淋しく思っていた。それでもそろそろパンジーの入荷の便りも届く頃だろう。考えるだけで口元がゆるむ。来春の陽光のもとを、早く地面に埋め込みたい。

10月1日
 今を逃しては来年まで会うことができないと思えば、行かずにはおれない。開店前の時間をやりくりして向島百花園へ萩のトンネルをくぐりに行ってきました。百花園のトンネルは竹製で30メートルの長さがある。中に入るといつまでもいつまでも続くような気がする。その気分を味わいたくて、出たあと、も一度入る。百花園は木々にまめに名札がついていてうれしい。見落としそうな地味な樹形や小さな花でも、名前を知っていれば知り合いだ。人様の庭先や道端で見かけた時、「ア、○○だ」と認識できる。思えば、数年前まで向島百花園は、私にとってあまり魅力のあるところではなかった。草花が多いので地味な印象だった。同じ場所なのに今は、あっちにもこっちにも魅力が埋まっている所となった。「咲いてる 咲いてる」と楽しくなる。今週はコスモスを見に茨城のひたち海浜公園へも行った。やりくりして作ったすき間時間に、キュッキュッと幸せを詰め込んでいる。いつか忘れた頃に、知らないうちに大きくなった幸せの種が芽を出すように。
 植物と同じ行為を、「ことば」にもしている。自分の好きなことばは、文字の連なる文章の山の中に埋まっている。埋まっているが、本を読んだり話を聞いたりして出会ったとき、「私のために待っていた」と感じる。いつか使ってみたいことばが少しずつ頭の中や、とっちらかったメモ紙の中にたまっている。忘れた頃にいつか、集結して一つの文になったらいいなぁと思っている。  

2005年9月のユーコさん勝手におしゃべり
2005年8月のユーコさん勝手におしゃべり
それ以前の「おしゃべり」