1月30日 節分寒波がやってきて、寒さ厳しい今日この頃です、が、土まわりを見ると、春到来の兆しに心おどる頃でもあります。近所の沈丁花の生垣の前を通るたびにふくらんでくるつぼみにウキウキします。庭先に梅を植えているお宅の前では足が止まります。先週は湯河原の幕山公園梅園へ行って、咲き始めた梅の花に鼻先を突っ込むようにして香りをたのしみました。お正月が開けると花屋さんにはもう気の早いチューリップが並び、うちのも芽が出てるんだよと、口の中でそっと店先のチューリップに声をかけたりしていました。そして、今朝、下草の間から顔を出しずい分伸びてきたチューリップの芽をひとつふたつと数えてみたら、ひとつ足りない。自分なりに設計して色を選んで植えたチューリップ、アレ、と思ってあったはずの場所に指を入れたらポコッと球根一個分の穴があいていた。ヤラレタ。人様のお庭ばかり気にしているうちに、今年早くも花泥棒がやって来た。「何でこのひとつを?」と疑問と悔しさに小さな地団駄を踏んでいると、もう十数年も前のことが思い出された。 今も亀を飼っているが、その頃も小さな亀を飼っていて、冬は外でバケツに入れて冬眠させていた。春になり冬眠から目覚めたばかりの亀を洗面器に入れてひなたぼっこに外に出しておいたら、姿を消した。誰かもって行っちゃったんだねということになって、亀の似顔絵(?)と「冬眠からさめたばかりです。返してください」と文を書いて、空になった洗面器に貼って同じ場所に出しておいた。当時住んでいた家の近所のおじさんが、「亀いなくなっちゃったの?」とか心配して聞いてくれた。翌日、亀が一匹、洗面器に入っていた。でも、いなくなったのとは違う種類の亀だった。誰が入れてくれたのかわからない。飼い亀がいなくなったことに同情して誰か入れてくれたのだろう。でも、うちの子じゃない…。その亀はとりあえず飼わせていただくことにして、うちの子も返ってくることを信じて洗面器は外に出しておいた。すると翌日も、また一匹亀が入っている。でも、大きさも色味もいなくなったのとは違う。ものを盗っちゃう人もいるけど、人の好意もいっぱい生きていることを感じた出来事だった。いなくなっちゃったのとは違うけど、亀は二匹に増えて、我が家で飼われた。 1月19日 昨日寄席へ行った。脳みそが溶けて出てきちゃうんじゃないかと思うくらい笑った。満員の客は舞台に向かってみな前を向いている。車座じゃないから、自分がどんな顔をして笑っているか、他人がどんな顔をして笑っているかわからないし気にしない。思う存分楽な姿勢で笑える。頬骨が痛くなる程笑って、ベテランの漫談を聞きながら舞台のよさを思った。数ヶ月前同じ寄席で同じ人のハナシをきいた。時事問題を取り入れながらハナシは進み、後半、その時と同じ音楽入りの同じネタが出てきた。充分笑えた。安心して笑えた。私が出かける。次にその人に会うまで数ヶ月の間に私には生活があり時の流れがある。だから再び非日常の場に出かけ、そこに同じネタがあったとしても、再び、笑える。 テレビだったらどうだろうかと、ふとテレビの消耗性を思った。テレビだったら「ああ また同じのやってる」と思ったろう。数ヶ月のブランクがあったら、「まだ同じのやってる」と無能よばわりさえしてしまったかもしれない。人の日常生活の中に飛び込んでいくテレビの宿命だろうか。いつも走っていなければならない。テレビが大事なものだった頃はそんなことなかったんだろうけれど、どこでも見られるようになり、チャンネルも増え、この消耗戦、そろそろ限界じゃないだろうかと、この頃思う。 そして日付かわって、今日は歌舞伎。見る前にパンフレットを買って、誰が出てきて誰が何をやってとインプット。あらすじを頭に入れたり、第一話でこの役をやった人が二話ではあの役で出る、とか、年始の挨拶口上を言う人はどの役で出る人だ、とか、見る前から準備に怠りない。チョンチョンチョンと拍子木がなって幕が開けば、目も耳も充実。どんどんと絵が音が光が入ってきて、脳がふくらんでいくようだった。そういえば昨日は脳みそが溶け出てしまうんではないかと思ったことを思い出し、おかしかった。 頭の整理が大変だ。出かける前と帰ってきてから仕事もするので、幕の内弁当の中身のように、一日の時間の中でやることがキッチリ区画されて仕切りの中に詰まっている。 夜中ふとんのなかでこれを書きつつ、明日の段取りをつけている。夕方から映画が待っているから。(またちょっと席をはずしていってきます) 1月14日 新春だ新春だ、というわけで、様々な文化事業がギュッとつまった一週間を過ごすことになった。いただいたり手配したりしたチケットの日付が来週の一週間に集中している。新春浅草歌舞伎に寄席、そして映画試写会1本ロードショー1本、そして、バーゲンのお知らせ。仕事の合間に上手に息抜き、じゃなくて、息つくヒマもなく息抜きするので合間にがんばって仕事もしてみます、の一週間になってしまった。結果としてこうなっちゃたけど、一つ一つはどれもありがたいことなので、ひとつもとりのこさずに全部おいしくいただきたいとイキごんでおります。 朝のワイドショーで、ベルリンの保険格付け機関が世界で最も危険な地域はダントツで「東京・横浜」だと発表したといっていた。自然災害の発生確率や人口密集度や重要機関・建造物の数等、どの項目をとっても、サンフランシスコやニューヨークもはるかにしのぐ危険率一位なんだそうだ。さもありなんと思った。仕事もこなしながら、ヒョコヒョコ出かけて短期間にこれだけのものを享受してしまおうっていうのだから仕方のないことだ。防災といっても限度があるだろう。東京の二割だかは海抜0メートル地帯なんだそうだし、私の住んでいるところあたりは地盤もゆるいんではないかと思う。(堀切菖蒲園という地名自体が、もとは菖蒲が自生できるような沼地だったのだろうなと思わせる。) 多少の備えはしつつもあまり恐れず、今をありがたく、日々満喫で過ごしてゆくしかないと思っている。昨夜は講演を聞きに神田古書会館へ出かけ、古書街を眺めながら、えびクリームコロッケとカキのブロセットとサンドイッチをたいらげた。 1月8日 寒暖の差が激しい。暖冬かと思っていたら年末突然の初雪、そして続けて二番雪。雪と雪の間の二日間は穏やかな好天ときている。年が明けてからも元日は凍結した雪で滑ったかと思うと、三日には散歩日和がやってきた。 こんな時は、天気予報の視聴率がいいだろうと思う。 あたたかくても寒くても日々の業務はかわらない。毎日郵便局からの振替用紙入りの封書を開ける。 今日、振替用紙のお客様住所欄が(神)で始まっているものがあり、びっくりした。神奈川県のお客様だった。市の名前から書いたけど、都道府県名から書いた方が良いかなと思ったのだろうか。(株)-マエカブ-が書いてある用紙はたくさん見たけど、(神)-マエカミ-ははじめて。何だか新春から神々しい感じがして、書き慣れた美しい文字の(神)が光って見えた。 全てのお客様へ、いつもありがとうございます。通信欄のコメントは欠かさずうれしく読んでおります。また本年もよろしくお願いします。 1月2日 店主はそば好きである。仕事で外へ出た折など、「ちょっと昼飯食べて帰ろう」となると、十中八九はそば屋となる。行く店は決まっている、太い方と細い方と呼ぶ二件である。どちらも下町にあり、質、量、価格のバランスが美しい。たのむのは「大もり」と決まっている。店主はもう十年以上そば屋では大もりを食べると決めている。私はここ2年くらいのことで、それ以前は、メニューを見て、「何にしようかな」とその時々で決めていた。ある時、仕事帰り、店主行きつけの南千住のそば屋(通称「細い方」)へ向かう車の中で、私が何にしようかなと迷っていると店主が「大もりにしなよ」と言う。「えぇ…大もりなんて食べきれないですよ」と返すと、「オレが半分もらうから」と言う。「そばを腹いっぱい食いたい」気分の時は、大もり一杯では尚少し足りないらしい。 私は承知した。店の前まで来ると早く食べたい店主は、車とめて行くから先に入ってたのんでおいてくれ、と言う。私一人でそば屋へ入る。おもむろに、「大もり二枚」と言った時の、店のおばさんの「エッ」という驚きの顔が忘れられない。いぶかしげに私を見る。所在なげに立ったままの私がイスに腰掛けると、店主が「こんちわぁ」と入ってきた。その顔をみておばさんは、合点がいった笑顔で、「いらっしゃい」とおしぼりを二つ席に持ってくる。店主は常連だが、それについて来る私の顔はまだ覚えてもらっていない。量があることを自負する店で女が一人でイキナリ「大もり二枚」、それは驚くわな。私はそれが面白くて、食べ終わって車に乗った後もまだ思い出し笑いをした。 それから二・三回はそのたび、おばさんの驚く顔によろこんだ。でもその後は顔も覚えられて、私も常連の連れ位の地位にのせてもらった。そんなこともあって今では私もすっかりそば好きになった、が、まだそこの大もりは食べきれず、店主に少し分けてあげている。 お店は、「行く春や 鳥啼き魚の目は泪」の句碑の立つ神社の近くにある。
2004年12月のユーコさん勝手におしゃべり |
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