5月29日 父が入院したと母から電話が入り、午前中電車に乗って様子を見に行った。軽い脳梗塞か若いとき馬から落ちて腰を強打した時の古傷が出たのか原因は不明だが、両手のふるえがひどくて、いろいろ検査するそうだ。 帰宅すると、家人から 「どう? 元気だった?」 と聞かれて、少し困り、 「元気じゃなかったけど、ガンコだった」 と答えたら、笑って、 「それじゃ、安心だ」と言っていた。 入院したんだから元気なわけはなく、手のふるえに不自由していたが、痛くも苦しくもないそうで、私が行くと、「何でわざわざ来たんだ」という顔を向けた。 「来てくれてホントはうれしいくせに、素直じゃないんだから」と心の中で思いつつ、「早く帰れ」と言われないうちに帰ってきた。気弱になっていないことに安心した。 若くてかわいい看護士さんたちに親切にしてもらって、「入院もたまには悪くない」と言っている。年を多くとると、その分「若くてかわいい」の許容範囲が拡がることに気付いた。父の域に達すると殆ど全ての看護士さんたちは「若くてかわいい」のだった。年をとるのも悪くない、と思った。 5月26日 買い物に出たついでに堀切菖蒲園に寄った。先週見に行ったときには100株に1株開花といったところだったのに、今日はもう「まさに絵の如し」だった。入ったとたんに「わぁ」と声が出た。 菖蒲もいいし、道端のムラサキツユクサもいい。園内を一周まわるけど、もう絵をかく人、写真をとる人、歓談する人で空きベンチはない。「初夏だ初夏だ」と弾む気持ちで自転車のペダルをこいで帰ってきた。 今年は池に「かめのかいだん」がなくて心配したが、何のことはない。亀たちは自力で池の淵に上がっていた。大きなカエルも水面に気持ちよく伸びていた。(「かめのかいだん」は去年まであった小さな手作りの木製階段で、亀が陸に上がれるように池の淵にかけてあり、ひらがなで「かめのかいだん」と書いてありました。ひらがなでも漢字でも亀には同じだと思うんだけど、亀にも解るようにひらがなで書こう、という気概が感じられて(?)、妙に説得力がありました。) (堀切菖蒲園普段は9時開園ですが、6月6日だけ朝6時からオープンするそうです。) 5月22日 雨が降ったりやんだり、不安定な天気が続いています。雨降りは好きではないけれど、雨上がりの景色は好きです。ここ数日は、雨上がりが何度もやってきて外の緑を見るのが楽しみです。濡れた木々の葉に薄日が当たって、「行きてる生きてる」って声が土手の雑草からも聞こえてきます。 先日、雨上がりといえば菖蒲だなと思いたち、開店前に堀切菖蒲園に行ってみました。チラホラと花の姿が見え、開花率はザット100株に1つといったところでしょうか。今頃はまだ人も少なくて、ゆっくり見られます。6月に入ると、あちこち三脚が立ち、公園の狭さを実感させられますから。 雨が続いたので店が開けられず、その分倉庫に通い書庫の整理が進みました。店主がまた書棚を増設しましたので、書庫に眠っていた本が少し目を覚ましました。少しずつ筆を進め、お届けします。 5月11日 陽射しが急に強くなってきた。植物の新陳代謝も早くなって、毎朝私に忙しさを与えてくれる。店の横に小さなベンチを置いてみたけれど、花に囲まれて座って本を読むなんて姿は、夢の話だった。終わった花を摘んだり油虫を駆除したりしていれば、小さな花壇でも時間は飛ぶように過ぎてしまう。 そして今日、また、プランターにひとつポッコリと穴が開いているのを発見した。ヤラレタ—。どんな人が持っていくんだろう、悔しいな、と手は止めずに頭の中でいろいろ考えた。花ぬすっとは、月に一度位やってくる。土を乱さず狙った一株だけをポッコリとっていくのだから、シャベルとビニール袋持参でやってくるのだろう。時間はたぶん早朝だ。そして…と様々思いをめぐらし、その人が、その人の基準で花を選んでいることに気付く。只で無断で持っていくぬすっと氏なのにズーズーしいが、いつも決まったプランターからというわけではないので、好みがあるのだろう。そんな人が近所にそう何人もいるとは考えにくいので、多分同一犯だ。一般のお客さんが花屋で花を選ぶように選んでいるのだろうか。それとも事前にめぼしをつけておいて、成長を待っているのか—。先日ご近所の方に、「かれんな花が好きなのね」と声をかけていただいて、「そういえばそうかな」と自分の無意識の好みに気付いたことがあった。同じようにぬすっとさんにも、自分の趣味があるのだろうか。考えれば悔しいのだが、ついいろいろ考えをめぐらしてしまう。 とられたところを穴にしておくのはシャクなので、すぐ他の花で埋める。ぬすっとさんに怒りを募らせながら、昨日観た映画「パッション」の一シーンを思い出した。イエスの居所がローマの役人にわかり追っ手がかかる。彼を捕まえんとするローマ兵に対抗して闘おうとした弟子ペトロに彼が、「剣をおろしなさい」と言う。 「剣をおろしなさい。剣をとるものは、剣にてほろびるのだから」というようなことを言うのだ。 「どうしてくれよう」と思っていた心は少し冷え、こんなことでおこっている自分に苦笑する。そして、我が身のことを考える。自分が子供の頃からしてきた悪いこと。親についたウソ、友達を傷つけた一言、どうせわからないからイイヤと思ってやったイタズラ、ごまかし…。 仕方がないな。やった時点で、やった人には、やられた人の痛みはわからないんだから、な。と、ムリヤリではあるが、心を治め、自分の中で今日のことは片をつける。 でもちょっとやりにくくしてはおこうと、夜間はカラスよけネットをプランターにかぶせることにした。 5月2日 日本が一番美しい季節がやってきた。自然にウキウキとして、早起きしてしまう。窓から身をのり出して外を眺め、外に出て満開のジャスミンのアーチの下で咲き終わった花の花柄を摘む。 エニシダがつぼみをたくさんつけていて、「スマンスマン」とあやまりながら水をやる。半月程前、花屋さんの店頭で黄色い花をびっしりつけたエニシダの鉢植えをよく見かけた。その頃うちのエニシダは、細い枝だけがひょろひょろ伸びて殆ど丸裸の状態だった。「うちのは今年は咲かないのかな」と落胆し、「去年、花の終わった後のを安く買ったやつだから、ケアが悪かったのかな」と思ったりしていた。それが、お花屋さんではすっかり姿を消した頃から葉を伸ばし、花芽を持ち、ゴールデンウィークの到来とともにつぼみも色づいてきた。 TVで早熟の天才児を見て、あわてて我子を塾に追い立てる親のようだったなと、反省する。それなりのペースで、力を蓄えていたものを、比べて悪かったと、毎朝心の中でエニシダにあやまっている。 5月1日 ドラえもんのポッケは、意外に身近にある。 店主が本の手入れをしている。同著者の初版一刷なのに帯が違う。よく見るとカバーの袖書きも微妙に違っていて、何種類かの組み合わせがある。同じ初版の本でも、附属品が違えば同じものではない。どれが最も当初の姿で、どんな付加価値がついて、本の姿が変わったのかを正確にたどりたい。職業人としての自負があり、推測や見当で仕事をすすめるわけにはいかないのだ。手段は、調べるしかない、が、昔のことでそうそううまくは判らない。手も尽きて、受話器をとる。業界の先輩に電話口から「○○の本なんですが…」と切り出すと、答えはいとも簡単にすらすら流れてきた。「ちょっと待って」と言われるでもなく、作家名と題名以外の何の情報も聞かれるでもない。まるで用意されていたかのように、帯の順番が出てきた。その間、私には何も手の出せるところはなく、ただ目を開き耳で聞いていただけだった。それから数日たった。 今日、ふとあのシーンを思い出して、「ドラえもんのポッケ」ということばが浮かんだ。あれはドラえもんのポッケじゃないか。知識の蓄積・生き字引、いろんなことばがあるけれど、ドラえもんのポッケが一番ぴったりだろう。「叩けよ、されば開かれん」のドラポッケ。分野に偏りがあるだけで、街中には、いろんな方面のドラえもんのポッケを持つ人がきっとたくさんいるのだろうと考えると、世の中は本当に楽しい。 でも、アニメじゃないから良きのび太となる人は、またちょっと違った分野で良きドラえもんでもあるのだ。自分でも知らないうちに自分にもドラえもんのポッケが付いていたら、それがどんなに偏った分野でも、カッコイイと思う。
2004年4月のユーコさん勝手におしゃべり
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