ユーコさん勝手におしゃべり

1月1日
 「自ら苦労して これを人に頒(わか)つ (廣池千九郎)」
 都内の神社の前に掲示された12月の生命の言葉である。堀切菖蒲園へ散歩に行く途中に見かけて、忘れないように店まで唱えて帰った。
 日々古い本と向き合っている。
 壊れてしまった本も、店で引き受けたからには、ほかすわけにもそのままの状態にしておくわけにもいなかい。それが店主のポリシーである。
 修復用に集めた和紙を伸ばし、指を糊だらけにして、日にちをかけて修復する。
 直し跡のある本は、手間はかかるが、きれいなまま入ってきた本より当然安い。それでも、それが資料として必要な人の所へ渡るならば、長く残るように、なるべく元の姿に戻して手渡したいと店主は言う。
 労苦に見合うか見合わないかは別問題なのである。
 私は「ふーん」とそれを見ているだけだが、12月の神社の掲示を見て納得がいった。
 労働時間と価格の間に比例関係は存在しなくていい。苦労して得た成果を人に手渡すことは、幸せを呼ぶのだ。満足感はプライスレスだから。
 大みそかは、天気が良かったので、店主とサイクリングに出た。半径数メートルで満足している私と違って、店主は「どこかへ行きたい」「何かしたい」人である。
 でも「どこか」なんてところは無いし、「何か」なんてものは無い。だから自分で計画しなくてはならない。 これも「自ら苦労して これを人に頒(わか)つ 」のひとつである。この場合の「人」は私だけであるけれど。
 昨日は都立水元公園から江戸川堤サイクリングロードを通るコースとなった。
 店主の決めた道順を、私は後ろについて走る。順調に江戸川土手を海方面に走ってゆく。
 途中で、店主が「コーヒー飲みたいな」という。自転車をとめて、近くにいた少年に、「この辺に、コンビニってあるかな」と聞くと、少年はスマホでチャチャっと調べて、「この土手をおりて、あっちの方にありますよ」と教えてくれた。
 土手をおりて街中へゆくと、すぐにコンビニがあり、コーヒーを買う。休憩の後そのまま土手には上がらず、知らない街の路地を店主の頭の中の地図の方向に従って走っていった。
 車で通ったことのある中川沿いの道に出て、また路地に入りしばらく走った後、新小岩あたりで店主が、
 「あ、道を一本間違えた。これじゃ荒川へ渡れないな」と言った。 「どーしようかな」と言いながら進んでいくと、横をすうっとおじいさんの自転車が通った。 店主がその後について行く。
 信号待ちの時、店主が小声で、「ほりきりって書いてあった」 と言う。そのまま自転車は、公園を抜け、路地を曲がり、上手に土手の高低差を避けて進んでゆく。
 おじいさんもきっと、私たちが自分の後ろについて行っているのがわかったのではないかと思うが、振り返ることもなくマイペースを守って走り、中川を渡って無事に荒川土手に着いた。
 私はてっきりおじいさんの自転車に「堀切○○」と会社かお店の名前が書いてあるか住所のシールが貼ってあるのかと思っていたが、店主に聞くと、「いいや。ただ、勘」 と言う。
 土手から降りてもそのままおじいさんについて、通ったことのない路地を通った。そして何と、本当に堀切駅前交番の交差点に着いた。
 おじいさんはそのまま堀切菖蒲園駅の方へ行き、私たちは店に帰った。店主は、
 「あのまま、ついて行けばよかったなあ。どこへ行くんだろう」 という。本当にそうだ。迷い道の救世主は新小岩から堀切へ何をしに来て、その先どこへゆくのだろう。
 ともかく、大みそかの半日は、「堀切へゆきそうな人」のおかげでとても楽しかった。
 

12月のユーコさん勝手におしゃべり
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