9月30日 9月は嵐とともにやってきて、嵐とともに去ってゆくらしい。おだやかな秋冬の到来を願って、あした、サフィニアの終わった花壇にパンジーを買いに行こう。 最近心に残った光景は電車の車内のこと。私は座席に座って本を読んでいた。隣の女性はマンガ雑誌を読んでいた。しばらくすると、何度か小さく鼻をすする音が聞こえた。「もしかして、泣いているのか」と思ったけど、気にせずにいると、女性はバックをあけ、ハンカチをとり出した。そっと顔面にあてたようだ。そっと、だったけれど我慢していたのを一度ぬぐってしまうと涙は次々出てくるらしい。見たら悪いと思って、見ないようにしていた私も、そこまですすり上げられると「いったい、何を、読んでいるのだろう」「見たい、見てみたい」とうずうずしてしまう。横目でチラッと彼女の本に目を向けると、「あー、よかった」というフキダシが目に入った。絵柄は、わからなかった。マンガだからキメのセリフだけが大きな文字で書かれているのだ。どうやらハッピーエンドに涙したらしいとわかって、なぜかこっちもホッとした。 その後も熱心にページをめくっていたが、自分の降りる駅に着いたらスッと立って、サッと降りていった。ページに熱中しているようでも、脳のどっかのところでは、自分の降車駅を冷静に判断していて、何事も無かったように感動から離れることができるのね。人間って不思議ね、と、彼女が降りてあいた席を、顔を向けて見つめてしまいました。 9月24日 店の前の土手に1週間ほど前から朝顔が咲き出した。うちの店の前は、細い道を挟んで京成電鉄の高架線が走っており、店の建物の3階の高さに駅のホームがある。その下は土手になっていて、駐輪場などに利用されているが、うちの店の前の一区画だけ土の土手になっている。年に数回京成電鉄が土手の草刈をする。それが7月下旬に行われて、他のボーボーの草といっしょに、何年か前から自生している朝顔もすっかり刈られた。数年前誰かが土手に置いた朝顔が毎年種を落として咲いていた。盛夏に「今年は朝顔咲きませんね」と通りがかりに人に聞かれたこともある。それが9月に入ったころからつるをのばし、今頃咲き始めた。今年はちょうど8月の終りから9月の始めに涼しい日が続き、その後夏が戻ってきたような陽気だったのが、ワンテンポずれた朝顔にはよかったのだろう。 そんなこんなで、花壇の夏はすっかり終わったが、店の前の土手は初夏である。昨日堀切菖蒲園に行ったら、萩のトンネルも彼岸花ももう盛りを過ぎていた。今年の秋はどうもタイミングをつかむのがむずかしい。 9月17日 ずい分秋めいてきました。まだ30度を越す真夏日もあるけれど、空気が違う気がします。急に、そういえばこの8月はどっこも遠出をしなかったことに気付き、まだわずかに夏日の残るうちに夏休み気分を取り戻さねばと日帰り奥日光決行。勝手知ったる奥日光だけれど、行くたび新鮮。今回は折りたたみ自転車は持たず、少し歩きました。前日の15日には初氷がはったそうだけれど、昨日は穏やかで、人気のない森の陽だまりで敷物しいてゴロゴロ眠っても気持ちよかった。道端のあっちの木、こっちの葉っぱをキョロキョロ見ながら歩いていたら、何でもない舗装道路でコテッところんだ。ズボンのひざがちょっとすりきれたけれど、ケガはなくすぐ立ち上がった。「前見て歩いてなかったの」と連れに言われて、ちょっと反発した。だって、楽しくて前見てなんていられないよ。つるあじさいの名残の花を見て「いいな、うちのカベのつるあじさいはどうして今年花をつけなかったんだろ」とか、「あのツタは、ひとり真っ赤に紅葉しちゃって早熟ね」とか、「ここは前に来た時はクリンソウが咲いてた」とか「あっちはもみじがいっぱいで来月はきれいだろうな」とかとかとか…。 それで、自分も老親にあんまり「ころばないようにしないとね。気をつけてね」って言わないようにしようと思った。そんなこと当たり前のことだし、ころばないように足許ばかり見ていたら、何かもっと大切なものを見逃しちゃうかもしれないと思えたので。大事故や大怪我は困るけど、小さな子どもにもあんまり「ちゃんと前見て、気をつけて」って先回りばかりしたらよくないなと考えた。自分が大人気なくころんだことの言い訳の思いつきではあるけれど。 夜まで、ゆっくり満喫して、たっぷり温泉につかって、帰宅。 そして今朝、外に出ると自転車の黒いサドルがかすかにほこりっぽかった。夕方のニュースで東京にも浅間山の噴火の火山灰が降ったことを知る。あっちからこっちから行き来しているのは、人間だけじゃなかった。遠く軽井沢から風に乗ってやって来た火山灰。私は、今日まだ動くとかすかにいおうの香りがします。 9月11日 9月は暴力的にはじまった。台風、地震、そしてテロのニュース。9月に入って10日が過ぎ、ようやく少し落ち着いてきた。今秋は、おだやかな読書の秋が訪れますように。 台風といえば、先日義母からきいた話が印象に残っている。彼女がまだ小さかった頃、一度だけ、近所の川が氾濫したそうだ。友だちが「川の水がすごいことになってる」と教えてくれて、いっしょに見に行った。そしたらまさに一部が決壊するところが見え、あわてて家に走った。川水がどんどんやってくる、それより早く家に着かねばと一生懸命走って両親に「水が来るから下のものを二階へ上げて」と叫んだ。でもお父さんもお母さんも「そんなことあるわけない」と笑ってとりあってくれない。小学校低学年の彼女は一人でせっせと大事そうなものを二階へ上げた。信じてもらえないのは悔しかったが、それより必死だった。そして事は一瞬だった。見る間に水は家に入り、畳も営業中の店舗も水浸し。二階に避難し、今まで道路だったところをいかだやボートが通っていくのを見ていたそうだ。教訓や恐怖が詰まった話だが、義母にその時の感想をきくと、「ちょっとワクワクした」だった。「大人は大変そうだったけど、子どもだったからね」と。不謹慎ながら、私も「そうそう」と思った。台風の非日常性はちょっと心を揺する。幼稚園か小学校の頃、台風で近所の川が氾濫した。庭は水浸しで大人はみんなびちょびちょになって庭の物置から家にものを運んでいる。いつもは庭にいる犬と、家の中からちょっとワクワクする心をおさえつつ、それを見ていた。 今朝美容院でそんな話をしてたら鹿児島出身で台風には慣れているという美容師さんも、「学校が休みになるしね。それが台風のいいところですね」と言っていた。 子ども時代の不謹慎なワクワクを胸にともしつつ、大人となってしまった以上ワクワクしてもいられない。「遠足は帰ってくるまで遠足」と苦言を呈す教師同様、お客様の手元に無事本が着き、ご入金確認が終わるまで大人的には気が抜けない。今一冊中国地方に発送した書籍が配達遅延になっていて気を揉んでいる。予定は未定、運転だって仕分けだって人がやっているのだから、「絶対」なんて一度の風や雨でもすぐに壊れることを再認識した。郵便局の配達遅延局や災害救援物資受付地域の情報を見てきた。お客様の局が入っていないことに安堵しつつ、無事配達の連絡を一日千秋の思いで待っている。 *その後のご報告/9月13日に無事を確認。どんなに吹いても降っても、荷物はちゃんと着いた。人間の善意に感謝。いつも行く郵便局の人も気を揉んでいたらしく、今日発送に行ったらすぐ「どうでした?」と声をかけてくれた。いつもパッと出してしまえば、その後のことなんかあまり気にしない。行方がオンラインで確認できるゆうパックや宅配便なら尚のことだ。まるでひとつひとつの書物でさえオンラインにのっかってとんでいくような錯覚をする。本当は、濡らさないようにトラックに載せ、風雨の中でも高速道路を走り、橋を渡ったり山を越えたりする人の手があるのに。想像力の大切さと必要性を、教えられました。
2004年8月のユーコさん勝手におしゃべり
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