ユーコさん勝手におしゃべり

3月26日
 作文が好きだった。
 恋をした時も別れが来た時も、うれしい時も困った時も、紙に文字を並べて自分の心を読んでいた。
 演劇をしていた頃、悲しくて泣いた後、顔を見に鏡の前に立った。文字を書くのも そんな感じだった。書くことで、今の自分を知る。
 このコーナーも、私の大切な場所の一つだ。それが、もう15日も止まっている。季節の動きをとどめるメモ書きの断片だけがたまっていき、文章にならない。タイトルもつかない。
 日常はつつがなく送れているが、ずっとお腹の底の方に哀しみがたまっている。
 音符だけがポトリポトリとあって、メロディにならない。
 「センソーは、いやだ。」

3月11日
 さぁ、亀さんのおでましだ。
 今日、冬眠バケツから飼いカメを掘り出した。上にのせた落葉を取り、シャベルで少しずつ泥をどけると、ニョキっと頭と手を出した。
 店主と二人で、カメの体の泥を洗い流す。何年か前までは、寝起きは少しビクビクしていたものだが、ここ数年は、しっかり記憶がある。 小庭内の移動や 私たちへの態度も、まるで昨晩寝て、今朝起きたかのようだ。
 あたたかい陽を浴びて、気持ちよさそうに手足を伸ばすカメに、何人かの人が、「あら、起きたのね」 と立ち止まって声をかけていった。
 朝のうちに作業が終わって、スーパーに買い物に行った。
 野菜を買い、魚コーナーで冷蔵ケースの中をみると、ビニールパックされたカニカマの上に てんとう虫が一匹のっていた。
 「え? 何で?」
 と二度見するが、やっぱり黒地に赤丸が二つついたてんとう虫だった。そっと持ち上げて てんとう虫ごとカニカマをカゴに入れた。
 野菜かお花についてきたのか。でも何故 魚売り場のカニカマの上にいたのだろう。
 昨日自転車で荒川土手に行った時も、蝶は見たけれど、てんとう虫は見つからなかった。
 カメの冬眠明けの日に、不思議な場所で出会った今年初のてんとう虫は、ビニール袋に入れて持ち帰り、小庭のプランターへすみかを移した。
 

3月9日
 午前中、30分ほど時間ができたので、堀切菖蒲園へ散歩に行く。
 ちょうど松の雪吊りをはずす日で、珍しい姿をみることができた。竹の心棒から四方に張られたイグサの縄がぷっつり切られて、纏のように風に吹かれている。作業をしている庭師さんに声をかけて、きれいになわれた縄を何本かいただいてきた。
 柳の芽生えが初々しい。あざやかな紅梅の花ごしに見上げた青い空を、白い飛行機が横切っていった。
 店に戻って、パソコンをあけ、韓国から注文のお客様への送料を確認しようと国際郵便のページをみると、ヨーロッパへの航空便の休止のお知らせが出ていた。ロシアによるウクライナ侵攻で航空機が減便したためだという。
 季節は春にむかうのに、人も物も交流できなくなる。
 飛行機が空を飛ぶのは、決して当たり前のことではないのだ、と知らされた。

3月8日
 シトシトと雨が降っている。
 雨が降ったら展覧会に行く。 昨日、8日午前中は雨が降ると予報が出たので、朝一番の回で「空也上人と六波羅蜜寺」展の時間予約を取った。雨降りは展覧会に行くというのは、以前からの習慣だったが、コロナ禍がはじまってから事前予約が必要なところが増え、何度かタイミングを逃した。あと少しでこのめんどうな状況から解放されるようで、ありがたい。
 展示はライティングが絶妙で、お顔をじっくり鑑賞できた。
 目当ての空也上人像は言うまでもなく、薬師如来像など、その唇から今にもことばが出てきそうで目が離せなくなる。
 会場の第五室を出て、第十四室の「おひな様と日本の人形」へ立ち寄る。古今雛と御所人形が並ぶ一室である。小さいながら贅を尽くしたお道具類が圧巻だ。
 年に一度これをしつらえ、また来年を楽しみにしまうことが、何百回と繰り返された。道具そのものの美しさに加えて、代々大切にしてきた時の力が 伝わってきた。
 内裏雛が主人公で、周囲が脇をかためる舞台作品とみると、主役顔と脇役顔の変遷もおもしろい。現代なら、この三人官女の真ん中の娘に主役交代かなとか、頭の中で配置替えをする。
 生まれた時と場所で、物語も運命も違ってくる。反ルッキズムや多様性が唱えられ、画面に出ただけで、これはいいもん、こちらは悪役とわかってしまうTV時代劇は、今や昔となった。 これから、おひなさまたちは、どうなってゆくのだろ…。
 博物館を出るころには、天気予報通り雨もやんできた。
 電車の中で、博物館で見たお人形たちの配役を考えながら帰途についた。

3月7日
 喜びと哀しみは、波のようにおしよせる。
 書庫に本を取りに行くと、鼻をくすぐる匂いがした。書庫の隣家の玄関先で、沈丁花が咲き出したのだ。紅と白のめでたげな色で、香りを風に乗せている。南向きに建つ隣家から道を挟んで向かいの家の庭先にも沈丁花があり、こちらはまだつぼみだ。陽当たりによる時間差で、長く香りを楽しめる。
 店舗に来客のない日はあっても、「カメはまだ?」と尋ねられない日はない。飼いカメの冬眠中、小庭のカメスペースには、「春になったらまた会いにきてね」の看板をたてたプランターが置いてあり、チューリップやヒヤシンスの芽が出ている。チューリップのつぼみが、カメの冬眠明けの目安となるからだ。クロッカスは咲き出したが、まだチューリップにつぼみはない。
 3月啓蟄の声をきき、店主はホームセンターへコンクリートの補修剤を買いに行った。いったんプランターをどけて、カメスペースの地面のコンクリの手入れをしていると、道ゆく何人もの方が、カメはいつ出てくるのか、と聞く。
 「まだ、もう10日くらいですね」 とこたえると、
 「そーぉ、楽しみにしているのよ」 とちょっと不満そうに小庭を眺めて行った。眠るのが趣味のようによく寝るうちのカメは、冬眠バケツの中でまだ聞く耳を働かせてはいないだろう。
 こうした春の喜びにひたすらつかっていた頃が、遠い昔に感じられる。日に何度も、東欧のニュースに耳目をひっぱられる。世界は不安定さを増している。戦争だけはダメだと、口をすっぱくして語っていた人々は、次々この世から逝き、もう声を聴くことはできない。
 哀しみと喜びが、波のように、交互に、音をたてて、打ち寄せてくる。こんな3月を、どう乗り越えてすごしたらいいのだろう。

3月1日
 2月は逃げ月。寒い日ばかりが続いた2月の末、ポーンと跳び箱を跳ぶように、冬から春へ、季節はいきなりやってきた。
 早咲きだけが 街を彩っていた梅の木も、芽生えた草花や若芽に囲まれて、多様な色をみせはじめた。
 小庭のプランターに、クロッカスのさいしょの一輪が白い花を開いた。
 こうして、寒かった2月を振り払うように3月がはじまった。今年も小さなお雛様を台所のカウンターに出した。原宿の街で、気ままに自分用に買ったお雛様に、自分のことだけ考えていた若い日の愚かさと、その時の周囲への感謝を思う。
 桃の節句の翌日は誕生日で、私はまたひとつ、歳をとる。

2月のユーコさん勝手におしゃべり
それ以前の「おしゃべり」