ユーコさん勝手におしゃべり

8月29日
 天候不順 お見舞い申し上げます。
 九州・湯布院のお客様から入金報告のメールが来た。
 「今年は夏が無くて 秋雨にくれる日々です」 とある。虫の声が賑やかになり夏の終わりを告げるエンジュの花に秋の気配を感じる、と書いてあった。
 あいつぐ天災や雨の続く天気予報が気にかかってはいたが、どうするすべもなく過ごしていた。「今年は夏が無かった」と直截なメールを受け取るとぐっと身につまされる。
 スーパーに思い通りの野菜が並ばないことに文句はいえない。
 あれこれ買いものをして、いり鶏を作る。日本中から集まった品々、ひとつひとつの産地に思いをはせ、いつも以上においしくいただいた。
 東京も今週は雨が続いている。
 雨が降る日は店舗は開けず、書庫の整理と近隣の博物館巡りをする。先日は千葉の袖ヶ浦郷土博物館へ行った。市立の小規模な博物館だが、展示が時代の逆順になっていて良かった。
 一階にまず少し前の写真展示がある。自分の幼いころの風景だ。自分の子ども時代を思い出せば、親にもおじいちゃん・おばあちゃんにも子どものころがあったことに思いが及ぶ。
 自分—親—祖父母—そして…、と展示の写真や物品に興味が続く。写真が絵になり、活字が文書になっても、その連綿を実感できた。
 通常の古代からの展示では、どうしても歴史を形成していた人々と自分の間にかかわりが感じられず、貴重な展示物も、「ふーん」で終わってしまう。大きな博物館だと、順に見ていって現代に近づくころには疲れてしまい、「次は現代から逆に回ろう」と思うのだが、ついまた順路通りに行って後悔したことがある。
 小さいながらも袖ヶ浦郷土博物館は、旧石器まで飽きさせない工夫の展示だった。
 天候が良ければ、湿原ハンターとして、8月下旬に行きたいところもあったけれど、天気ばかりは争えない。その分、博物館や展覧会にはいつもより数多く出かけられた。書庫の整理で掘り出し物もいくつかあった。書庫での収穫は、また順々にお客様に還元してまいります。 よろしくお願いいたします。

8月19日
 「妖精がいる?」
 先週、渋滞を避け店主のバイクに二人乗りで日光へ行き、公共の宿に泊まった。翌日はいろは坂を登り、奥日光へ避暑に出る。夕方宿に戻り、窓に何かいるのは気付いたがそのまま眠った。次の朝、昨晩と同じところに生成り色の虫がとまっていた。半透明の姿態とつぶらな目が妖精を思わせる。
 その美しさにデジカメを向けたが、なかなかピントが合わない。あーでもないこーでもダメとカチャカチャ音をたてても、動じる様子もなく、高貴な妖精然とした姿でピントが合うのを待っていてくれた。(画像はこちら)
 その日東京大学付属日光植物園へ行ったら、植物のチェックをしていた所員の方と出会ったので、「昆虫もわかりますか」とデジカメ画像をみてもらった。若い女性所員さんが、植物のチェックをしていた紙に、特徴を手早くメモして、
 「わかると思います。あとで調べてみますから、帰りに入り口の受付によってください。」 
 と言ってくれた。
 頼もしい。奥日光の水産総合研究センター日光庁舎(さかなと森の観察園)でも同様に感じることだが、研究員の聞かれたことには答えたい、という真摯な態度に頭が下がる。
 私の見た妖精の名前はフタスジモンカゲロウだった。
 カメラの前でじっとしていてくれたフタスジモンカゲロウと、手際よくフタスジモンカゲロウと書いたメモ紙を受付の係りの方に渡してくれた研究員の方に感謝。
 前日の奥日光でも、昆虫を通じてよい出会いがあった。竜頭の滝から中禅寺湖畔を千手ヶ浜まで行き、1677mの高山へ登って竜頭の滝へ戻るルートを店主が決めた。歩き出すと、一面に黄色いハンゴンソウが咲く天然の花畑の斜面に、大きな補虫網を持ったおじさまがいた。斜面の横の山道を通りかかると、網をひらりと回したおじさまが、
 「オーイ、珍しいもの 見せてあげるよ」
 と声をかけてくれた。大きな網を持っておりてきて、「何だと思う」 と聞く。一瞬、間があって、私とおじさまが、同時に
 「アサギマダラ!」 と声をあげた。
 おじさまはそっと網から出し、油性マジックで羽に何か書き、空に放した。蝶は美しい羽をひらめかせて、瞬間に飛び去った。
 店主が、「ずいぶん遠くまで飛んでいくんですよね」 と聞くと、
 「ここらへんのは与那国島まで飛んでいくんだ」 と言う。マークをつけた蝶は愛好家同士がインターネットで確認しているそうだ。
 お盆休みで、有名な各滝の駐車場は人混みだが、山歩きをする人はあまりいないようで、その後高山山頂までのルート中、2・3組のカップルとすれ違っただけだった。
 涼風を満喫して、昼食は湯ノ湖畔のイベントで湯元温泉組合の焼く大きなニジマスの塩焼きをいただいた。
 帰りは日光から鹿沼に下りて、そばと温泉で仕上げる。今夏の避暑旅もこれでおしまいだ。
 8月も余すところあと10日、朝晩は秋風も感じられるようになった。
 帰宅後、店横のプランターで息絶えたせみとバッタをみかけた。夏の植物も衰えを見せ始め、季節はうつろう。
 昼間は33度の暑さだが、日は少しずつ短くなり、店頭の日除けネットを出す順番も太陽の動きとともに変わり、夏の通過を見送っている。

8月18日
 「歩行者のいない歩行者天国みたい」 と思わず口に出た。
 昨日、お盆休みと日曜日が重なって、ニュースは行楽地や帰省からの帰り渋滞を伝えていた。
 朝9時、買いものに出ようと自転車に乗って路地を抜け、4車線道路に出て、びっくりした。いつもは通勤や配達で車列ができている道がガランと広場のようになっている。人も少ない。
 人の流れは生きもののようだ。一人ひとりは何かにコントロールされているわけではないのに、一度に流れたりひいたりする。お店にいても、問い合わせや来店客はなぜか重なる。急にあわただしくなるかと思うと、潮がひいたように人も用事もはけてしまう。
 お盆休みモードから、東京に人が戻ってきた。今日明日あたり各職場に様々なおみやげが飛び交っているのかな。

8月8日
 昨日は立秋だった。
 お客様へのお便りに、「暑中お見舞い申し上げます」と書いてから、
 「この書籍が着くころには、残暑お見舞いになっているんだった」 と気付いたが、連日の猛暑で、体感的にはどうしても暑中である。

 今朝、花に水をやっていると、白い大輪のサフィニアのひとつに大穴があいていた。摘み取ろうとした時、そこに毎年花壇でみるシュッとした顔のバッタが目に入った。
 「ああ、バッタくんか」
 と口に出して、摘み取らずにおいた。
「エコヒイキ」とか「親バカ」ということばが頭に浮かぶ。野生でも自分の庭に毎年顔を出すと、ペットのような気分になるらしい。
 ひととおり水撒きを終えてその場所に戻ると、もうバッタはいなかった。穴のあいたサフィニアも摘み取って、見回したけれど、どこかの葉陰にまぎれてみつからなかった。

8月6日
 朝顔の季節である。年上の知人が、
 「今年はどうもうまくいかなくてね」 と、朝顔の話をする。
 「今年も5月に苗を買ってさ。いろいろとりまぜて6種類も、早くから植えたのに、8割鳴かず飛ばず」
 と言う。つぼみはふくらむのに、「明日咲くかな」と思ったところで、花が開かないんだそうで、
 「今朝は先っちょをハサミで切ってみたよ。そしたら開くかなと思って。
 一種類だけ、白くて真ん中が赤い大輪のは元気なんだけど、あとはもうダメで。今朝、水やりながら朝顔にぶつくさ文句言ってたら、早朝ウォーキングのおばさんがうしろから、
 『そんなことありませんよ。毎朝通るけど、きれいですよ。』
 っていきなり言うんで、びっくりしちゃった。
 オレ、随分大きな声で花に話しかけてたらしいんだな。」 と笑った。

 彼のお父さんは園芸が趣味で、花を育てては咲くと色紙にその絵を描いていたそうだ。その時は「何が面白いんだろう」と思っていたが、父親が死んで何年かした後、ふと思いついて、父が残した朝顔の種を撒いてみた。その夏、色とりどりに咲くのを見て楽しくなり、以来庭の世話を始め、父親の描いた絵を額に入れ、季節に合わせて取り替えるようになったそうである。
 花に文句をつける彼に、背後からかけられた花側に立った抗弁は、ウォーキングのご婦人の口を借りて、彼のお父さんが発したのかもしれない。

8月4日
 とてつもなくいい天気。朝目が覚めてカーテンをあけると、夏の青空がひろがっていた。ここ数日、暑すぎることを除けば、文句なしの晴天が続いている。

 8月がやってきた。土曜日の晩は江戸川の花火大会を見に行ってきた。あちこちの自治体で催すので、京成電鉄「江戸川」の駅を降りて土手に上がると、川上からも川下からも豪奢な花火が打ちあがった。はじけては大音量をとどろかす花火に平和だなあと感銘した。
 ここ一週間程、戦中の内閣発行雑誌を見続けたので、土手の花火を見ている自分が、タイムスリップした人のようで、胸に響く音が今までの花火と違ったものに感じられた。
 若いころは興味のなかった父の戦時中の話を、最近よくこちらから尋ねている。
 父は4人兄弟の末っ子である。父の母親は、終戦の年の春から具合が悪く、終戦の翌日(昭和20年8月16日)に亡くなった。
 8月22日、玄関の引き戸を勢いよく開けて、
 「おっかちゃー、おっかちゃー」 と大きな声で呼びながら、9歳年上の次兄が家に飛び込んできた。次兄は兵役で近衛に出ていて、母の病は知っていたが、戻れなかった。父が、
 「おっかちゃんは死んだよ。おととい葬式も済ませた。」 と言うと、がっくりひざを落として
 「おっかちゃんがまだ生きていると思って、会いたくて急いで来たんだ。
 あと2時間待ってたら、軍馬も何も持ってこられたんだけど、とにかく早く帰りたかったんだ。」
 とうなだれた。

 「お母さんは、戦争が終わったのがわかったの?」
 「ああ、15日の晩の電気を見て、『明るいねぇ』って言ってた。」
 「それだけでも、よかったね」
 長兄は、鉄道の職に就き、中国の南京駅へ派遣されたが、事故で両足切断の怪我をして実家に戻って療養中だった。父のすぐ上の兄は勤務先の工場でやけどを負い入院中だった。4人兄弟のおっかちゃは、夫と長兄と末っ子に見守られて、自宅で亡くなった。
 死を前に、あの時代に4人の男の子の命を、戦争で一人も失わなかっただけで、母としては幸せだったろうと思うしかない。

 新潟の、一面田んぼの純農村である。私も子どものころ、夏休みになると遊びに行った。みどりの田の間に小川が流れ、明るい楽しい思い出しかない。
 終戦前後の年、田の中に見た一軒一軒に、そして日本中の一軒一軒に、それぞれドラマで見るような出来事があったろうことに、その時は思いも及ばなかった。

8月1日
 上野の東京都美術館に「楽園としての芸術」展をみに行く。
「人間じっとしてたら腐る」と思っている店主といっしょに、毎月いくつかの博物館や美術館に出かける。そのうちのひとつのつもりで、上野の森の蝉時雨の道を通った。
 涼しい館内に入り、「楽園としての芸術展」のブースに足を踏み入れると、目に入ってきたのは鮮烈な色の連なり。なつかしい子どもの感性。期待以上どころか、今年一番の衝撃だった。
 「アトリエ・エレマン・プレザン」と「しょうぶ学園」という二つの施設で制作された作品を展示しているのだが、そういったくくりなしで、芸術家の立つべき場所を教えられた展覧会だった。
 就学前のある時期、一気にあらわれては消えてしまう感性がある。幼児の持っている真実を見る目や耳に、手先の技術が追いついて、ほとばしり出る色や形だ。でもその後、知識をのせることで、その感性を手放してしまう。戻りたいと願っても、戻せない地点がここにあった。
 時間が止まったまま進化している。
 今回出会えて一番うれしかった作品は「桃」(石川栄太)で、私がいだく桃のイメージとぴったりの、「桃の真実」がそこにあった。芸術は事実でなく真実を表すという、よく聞くがよくわからないことばが、今回はちゃんとのみこめた。
 会期中にもう一度足を運びたいと思う。

7月のユーコさん勝手におしゃべり
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