ユーコさん勝手におしゃべり |
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3月29日 24日に安西水丸氏の訃報を報道で知っておどろいた。 作品として出される元気な絵をみていたので、元気でおられるものと思い込んでいた。安西水丸訳の、カポーティ『夏の航海 Summer Crossing』を手にとり、今日読み終わった。 文壇デビュー前、19歳のきらめくカポーティを届けていただいて、ありがとう。 3月25日 プランターのそちこちに、かくして埋めておいたミニチューリップの芽がでて、つぼみを持ち始めた。自分のしわざながら、うれしい。 洋裁を生業としてきた母が、手持ちの服をリフォームしたり、残った布地で小物をつくる手仕事のことを 「ちょっと、いたずらした。」と称していた。 子どものころから聞いていたそのことばを、思いがけない葉っぱの間からニョコニョコ出ているチューリップの芽を見て思い出した。 3月18日 今年は春の来るのが遅い。よく雪が降り、開くのを躊躇していた花たちが、3月もなかばを過ぎてやっと目覚め始めた。 菜の花の咲く江戸川土手を通って、久しぶりに車の進路を北へ向け、常磐自動車道に入る。私と店主と店主の友人の3人で、水戸の偕楽園へ出かけた。 同行した年上の友人は、お母様の実家が福島で、田舎に行くとき、常磐線の列車の窓から、「ここが偕楽園だよ」といわれて通り過ぎる梅林を見た子どものころの記憶があるが、来るのは初めてだと言う。 爛漫の園内を歩いて、「静かな花だね」と言った。私はちょっと驚いて花を見た。園内は多くの人がそぞろ歩いている。おしゃべりの声も聞こえるけれど、青い空をバックに花を見ると、梅の花は確かに静かだ。 こちらをむいて微笑むように揺れる桜とも、すずなりの桃色でアピールする桃の花とも違う、静穏を感じる。梅の花の新たな魅力を教えてもらった。 私は香りが好きなので、これはどうかな、あれはどうかなと、鼻を近づけては楽しんだ。 偕楽園を出てバスに乗り、水戸駅の近くで降車し、市街地に出る。昼食時で、サラリーマンについて、そば屋に入る。大盛りに満足し、弘道館へ向かう。震災後の修復作業中で建物にはまだ入れないが、お庭は梅と黄色のサンシュユが美しく手入れされて咲いていた。街を歩き、コーヒーの香りのする店の前で店主が、 「さっきここのカップ持って歩いている人とすれ違ったよ」 と言う。 「あ、ぼくも見た」 「じゃ おいしいんじゃない」 ということになりコーヒー屋さんへ入る。豆の挽き売りの店だが、店内でも飲める。旅に出て知らない街でおいしいコーヒーに出会えるのはうれしい。 歩いているうちに、風が強くなってきた。強風にあおられるように最初に車を止めた駐車場まで歩き、帰途に着くと、車中のFMラジオが春一番の到来を告げていた。 3月17日 「おはよう」 と何度も声をかけた。 朝、ゴミ出しとプランターの手入れで外へ出ると、飼い亀の水槽が目に入る。春だなあとうれしくなって、水槽の横を通るたびにのぞきこんではあいさつしていた。 昨日、冬の間しまっておいた大きな水槽を店横の小庭に出した。冬眠用の小さな水槽からひなたに亀を出して、泥と落ち葉をホースの水で洗ってやる。まぶしそうに目をあけ、そのうち首を伸ばして日光浴をはじめた。 仕事の合間の息抜きに、よく亀と散歩に行く店主は、冬の間さびしくて、 「来年からは冬眠させない。寒くなったら家に入れてやろうよ」 と、何度も言った。自然に任せて冬眠させたい私と毎年討論になる。 今年も春が来て、こうして首をめいっぱい高くあげて陽を浴びている姿を見ると、これでいいと思う。 季節に寄り添って生き、また秋になったら冬眠用の落ち葉を捜しに行こう。 半年桜の葉にくるまって眠っていた亀を、 「まだ桜のにおいがするよ」 といいながら、自転車の前かごにのせて、店主は散歩に行った。 夜になり、空にはぽっこり満月が出た。明日も晴れだ。 3月13日 おとといの火曜日、北鎌倉へ散策に出かけた。よく晴れた日だったが、首都高速の道路脇には、時々雪のかたまりが落ちていた。トラックの屋根に乗ってきた雪が、東北ではまだ降っていることを教えてくれる。車窓から見える富士山も下の方まで雪化粧をほどこしていた。 高速を降りて一般道を走る。色彩のない道に真赤なつばきの花がポトリ ポトリと落ちていた。街路のもくれんは、いまにも開きたそうに花芽をふくらませている。寺めぐりをすると、どこも梅が見ごろをむかえ、大輪のみつまたが良いにおいを放っていた。 円覚寺の黄梅院の入り口に坂村真民の詩が掲げてあった。来る途中に見たつばきが頭によみがえり、思わず立ち止まって、声に出してよむ。 あ 一途に咲いた 花たちが 大地に 落ちたとき "あ" と こえをたてる あれを ききとめるのだ 詩に力をもらって、アップダウンのある北鎌倉を半日歩き回った。 寒かった今冬もようやく出口が見えてきた。 昨日、近所の女の子が、冬眠中の亀の様子を聞きに来たので、 「さいしょのチューリップのつぼみが出てくるころに、冬眠から出てくるよ」 とこたえた。 そして今朝、盛んに鳴き交わし、電柱の変圧器の下で巣作りをはじめたスズメを見つけ、にわかに亀が気になった。 昨年の桜の紅葉が淵まで入った亀の冬眠用水槽のふたを開けると、ふわっと桜の香りがした。紅く乾いた桜葉をあらかたとりのけると、どろ水と亀の甲羅が見えた。 18回目の冬眠だが、無事に目覚めているだろうか。 ドキドキしながら見ていると、甲羅からちょっぴりのぞかせた頭を少し動かした。 「ああ、おはよう。よかった 」 おふとんの中で少しぐずぐずしていたいだろうな。 まだ、いきなりは出さず、桜葉のふとんを少し残したまま、再びふたをして、棚に水槽を戻す。 今日は午後風雨が強まり、春の嵐の予報だ。この嵐が過ぎたら、小さな冬眠水槽から出してやろう。 そうしたら、プランターのミニチューリップにもさいしょのつぼみが出てくるだろう。 3月4日 私は子どもの時から本を集めることが好きだったから、外国に行っている時もせっせと書物を買った。だが貧しい戦後留学生が漁る書籍など知れたものだ。せいぜい三、四百円の普及版か、どんなにはりこんでも千円の特製本である。「本は読めさえすればいいのだ」と私は口惜しまぎれに考えてみる。けれども、やはり、良い紙質の良い印刷の頁を開けば、それだけこちらの頭もひき締まる気がする。初版本をひろげれば、作者にそのまま触れるように思われる。(遠藤周作著 新潮文庫「月光のドミナ」収録「シラノ・ド・ベルジュラック」の冒頭部分) 今日、映画「大統領の執事の涙」をみに行った。 時代は行きつ戻りつせず直線的に通り過ぎる。自分が過去に行ってそれを見ることはできない。でもこれは時代をふんわりとつつむ風呂敷包みをひらいたような映画だった。 私の敬愛するカポーティの描いたアメリカの南部と北部の世界があった。センセーショナルでなく、誰にもおこる心の動きとして事柄を描いていて惹きこまれた。 冒頭に掲げた文は、遠藤周作が昭和32年から35年に書いた短編集から引いた。この短編集に収められた11編の主人公は中年の男で、たんたんと日常を送りながら、自分が被害者として傷つき加害者として傷つけもした戦争の苦い思いを引きずり、痛みを知らぬげな若者との見えないあつれきに重く憤っている。 設定や場所は違うけれど、この映画が映し出す時代に、カポーティや遠藤周作の作品のことばが次々浮かんだ。 とびらをひらくと、その時代が目のあたりにひろがる。ていねいにつくられた映画と、作者のいた時代をそのまま紙におとしこむ、造形としての書物の共通点ではないだろうか。 2月のユーコさん勝手におしゃべり |