ユーコさん勝手におしゃべり

11月29日
 11月のさいごの週、二日続けて冷たい雨が降った。
 寒波ということばも聞こえ始めた27日の金曜日、朝からごちそうのように晴天がやってきた。店主は、冬の散策のために、昨冬のおわりからいくつものコースを考えていた。いよいよ決行の時である。
 ハイキングの身支度をととのえて、車に乗り首都高速道路を海沿いに南下する。
 くっきりと晴れた空の向こうに雪をかぶった富士山と周りの山並みが続く。海の色が藍に近いほど濃く青い。
 東京都から神奈川県に入った首都高湾岸線を幸浦で降り、近くの文明堂の工場で、まだあたたかい窯出しカステラを買う。今日の目的地は、朝比奈切通し、横浜から鎌倉へ抜ける武将の道である。
 市街地からちょっと道路を曲がると、切通しへの坂道がはじまる。時折すれ違う人と、あいさつしながら歩く。湧水が流れとなり、太くなり細くなる。
 坂を登り、太刀洗川となった流れと共に坂を下りると鎌倉市側に出る。前方を団体で歩いている人たちの最後尾に追いつき、あいさつを交わすと、地元鎌倉のウォーキンググループの方だった。
 「これからどこへ行くのですか」 と聞かれたが、特に決めてはいなかった。
 新聞に原節子さんが9月に亡くなったという訃報が載った翌日だったので、話題は自然に原節子さんの方へ行き、ゆかりの寺浄妙寺とその周辺についてお話を伺う。
 ウォーキンググループの方たちは、路地を入ったところにある隠れ家中華レストランで、これから昼食をとるのだという。
 「みなさんで行ったら、もういっぱいですよね」 と聞くと、
 「うん、席がそんなにないから、今日はもう入れないよ。ボクらも事前に予約した人数だけで、あとの人はここで解散なんだ」 という。
 店の名前を聞き、中華屋さんは今度来た時の楽しみに取っておく。
 「じゃ、浄妙寺に行ってみます」 と、レストランに向かう路地に入る一行を見送って、そのまま直進した。
 浄妙寺を散策し、原節子さんのご自宅前で目礼する。帰路はお寺の前のバス停から、朝比奈までバスに乗ることにした。バス停のベンチで持参のポットのお茶をいれて、朝買った窯出しカステラを食べた。
 しばらくすると、リュックを背負った老婦人がやってきて一緒にバスを待った。
 その方は、報国寺とその裏山へ紅葉を撮りに行った帰りだった。
 「リュックの中はカメラなの。昨日来るつもりだったんだけど、天気が良くなかったから。光があった方が良いと思って」 という。
 横浜からバスで通っているが、なかなか思う紅色に出会えないそうで、
 「きれいな葉がみつからなくて、今日もダメだったわ」 とほがらかに笑った。
 終点の金沢八景駅まで行くというご婦人に手を振って別れ、車をとめた朝比奈でバスを降りた。
 再び首都高にのって東京に戻り、いつものように店を開け、本の発送作業をした。
 今日も天気が良い。あの老婦人はどこかの寺とその周辺に、カメラをかかえて通っているだろうな。

11月19日
 いつだったか新聞に、日仏合作で藤田嗣治の映画が制作される、という記事が出た。その時、
 「…オダギリジョーなら、いいな。もしオダギリジョーがフジタ役なら、観に行こう。」 と思った。
 その後しばらくして、配役が発表され、主演ははたして、オダギリだった。
 先週末、小栗康平監督映画「FOUJITA」が公開され、さっそく昨日見に出かけた。
 雨上がりの朝、上野へ出て、午前中は国立博物館で「始皇帝と兵馬俑」展を観て、昼食をとり、有楽町で「FOUJITA」を観る。
 こんなに満席で、これほど静かな映画鑑賞は、今までなかった。
 この日、始皇帝とフジタ、時代をとどめようとした人と、徹底した傍観者として時代を見続けた人を、一日の内に見ることになった。 
 そして「FOUJITA」の映画、見終わってみると主人公は文明開化に異を唱えたキツネであった。里山に人と住むキツネは何とか時の流れに抗おうとしたが、その行動は、神話やいいつたえにだけ残った。
 始皇帝にもキツネにも、時は止められなかった。
 映画が終って外に出ると、雨が降っていた。
 気圧が下がって頭が痛くなり、夕べは早く寝た。そしていろんな夢をみた。ひとつひとつは覚えていないけれど、朝目が覚めたとき、時が、何世紀も、たくさん流れたような気がしていた。

11月15日
 紅葉を追って、北から南、高地から低地へ。
それが、名所旧跡のどこ でなくても、里山や湖畔に美しさはひろがる。
 稲刈りが終ったあと、収穫の労働への無償の対価として、錦秋が来て、通りすがりの私たちもそのご相伴にあずかった。
 奥日光で、会津五色沼や秋元湖で、北茨城の渓谷で、そして都立水元公園で、落ち葉拾いをした。
 紅葉の到来は、飼い亀の冬眠と直結している。今年も、赤や黄色、橙色の葉がレジ袋二つ分あつまった。もう水を飲むばかりで何も食べない亀は、きょろりきょろりと周りを見渡し、眠るタイミングをはかっている。
 今朝、冬桜が満開の堀切菖蒲園へ行った。松には雪吊り、牡丹には雪囲いがしてある。雪囲いの下で牡丹はつぼみをつけていた。
 やっと最近、椿とさざんかの見分けがつくようになった私を祝うかのように、さざんかの花が咲いている。
 こちらの もみじは、まだみどり色。池の石の上に大きながまがえるがいて、
 「冬眠は まだじゃ」 と言っていた。

11月6日
 いいことは波状的にやってきて私をワクワクさせる。
 まずは、紅葉と新そばの季節である。
 この間の日曜日、栃木県・粟野へそばを食べに出かけた。廃校になった小学校の跡地でおいしいそばを食べさせるお店がある。道の駅を兼ねたような公共施設だ。いつもは平日に行くのだが、今回はたまたま日曜日にあたった。
 収穫期を迎えて、刈り取りをしているそば畑もあり、作業中の人を時折見かける以外、人通りもない静かな農村の道をゆく。そして目的の店の前に行き驚いた。突然のすごい人だかりなのだ。車もたくさん来ている。まったく知らずに行ったが、お祭りだった。
 そば屋さんも、「整理券買って、待っててね」状態だが、せっかくここまで来たので、楽しむことにした。
 いったいどこにこんなに大勢の人がいたのだろう、と思わせる人手で、生バンドが入り、元校庭の周りに地元の川の幸、畑の恵みの屋台が並んだ。そばも、「今日から新そば」ということで、たくさんの人が来ても手抜かりなく、挽きたて 打ちたて 茹でたて だった。
 たっぷりおいしくいただき、大芦川沿いの紅葉を見物して、帰宅した。
 そして翌日、カバンの中に携帯電話がないことに気付いた。そういえば、おそば屋さんで一度使って、それから記憶がない。
 自宅の電話からケータイに電話をかけてみる。一回、二回、三回目のコールで電話口に女性の声がした。
 「えーと、あの…」 自分の電話に何と言ったらよいかわからず、口ごもると、むこうも、
 「えっと、あの…」 と一呼吸あって、お互いに名乗った。電話はやはり、おそば屋さんに置き忘れてあった。
 「お手数ですが、着払いで送ってもらえないでしょうか」 と頼むと、こころよく引き受けてくれた。 「おそばもとてもおいしかった」ことと、お礼を言って電話を切った。
 翌日、ていねいに包まれて、私のガラケーは、宅急便で届いた。もともと私のもので、置き忘れという失態から生まれた荷物なのだが、何だかやさしいプレゼントをもらったような気分になった。
 また足しげく行こう、と思う。
 それから、もうひとつのいいことは、今日受け取った書籍代入金の郵便振替用紙だ。
 最近何度か購入していただいた憲法学者さんからである。はじめに電話で問い合わせがあり、書籍を見にご来店いただいた。
 何冊か手に取り、吟味する。当店の価格設定を評定しているようで、堅くて厳しい人という印象を受けた。それから何回か注文があり、その都度、本を送った。
 そして今回、振替用紙の通信欄に、「せんそうはイヤだニャン」と吹き出しをつけたかわいいネコのイラストが描かれていたのだ。
 「あら、こんなにお茶目な方だったなんて…」
 古書とその扱いを通じて、「受け入れられた」 と感じたことだった。
 これからも、地道に、ひとつずつ、ていねいに、本を通じて多くの方とつながってゆきたい。

11月4日
 郵便局に注文書籍の発送に行く時、駅前の道で老婦人が二人、立ち話をしていた。一人はかわいい服を着たトイプードルを二匹つれている。
 信号を渡って郵便局に行き、発送作業が終って同じ道で店に戻った。立ち話の二人はちょうど話が終って別れたらしく、犬を連れた人が、下を向いてワンコたちに、
 「お待たせしちゃって、すいませんね。」 と言って歩き出した。
 確かにワンコたちは、おそらく人間の幼児よりもおとなしく、待っていた。でも、何かおかしくて、歩きながらほほに笑いがわいてきた。

11月1日
 好天が続いた10月のこと、老親が、「海が見たい」 という。
 父は直江津、母は能生(今は糸魚川市)の出身で、青年期まで海はいつも身近にあった。上京し、結婚して、私が幼い頃横浜に定住した。ここでも海は身近にあるが、岩があって浜がある、ホントの海が見たいのだ。
 しかし昭和2年生まれの父はひざが痛くて、そう長旅はできない。近くて海の幸が豊富な千葉の館山で一泊することにした。
 目の前が日本夕陽百選の砂浜のホテルをとり、昼ごろ横浜の家を出てアクアラインを渡り、海辺の道をドライブする。これだけで目のごちそうだ。
 チェックインの少し前に目的地に着き、海岸駐車場に車をとめて、持参のイスを海に向けて置く。父を座らせ、両親と店主と私の四人でただ海を見る。遠くに近くに船が浮かび、岬があり、岩があり砂浜がひろがる。絶えず波の音がして、両親の全身が、懐かしい気分になってゆくのを、うれしく眺めていた。
 しばらくそうしていると、駐車場に白い車が来て、男性が一人降りてきた。私に、
 「すいません。よくここで海を見ているのですか。」
 と聞くので、てっきり道でも聞かれるのかと思って、
 「イエ、ここは観光ではじめて来たんです。」 と答えると、
 「そうですか。」 と言って、海をみつめてから、
 「私は、地元のロータリークラブの者なんですが、今度この浜にベンチを置こうと考えています。むこうのヤシの木の植えてあるところに設置するつもりだったんですが、ここもいいなと思って。」
 「あぁ、ここは視界が広くて、海を見るのにいいなと思って、イスを出したんです。ベンチがあるといいですね。」
 「今日はちょっともやっているんですが、晴れていると、この真正面、沖に見えるあの白い船と黒い船の間に、富士山が見えるんですよ。みなさんが思っているより、大きく見えますよ。」 と言い、あいさつをしてまた車に乗り帰って行った。
 真正面の富士山にやがて夕陽があたる光景を想像して、しばらく楽しんだ。
 彼は、「貴重な意見をありがとう」と言っていたけれど、「こちらこそ、ありがとう」の出会いだった。
 砂浜の目の前のホテルに入り、部屋の窓から、完全に沈むまで飽かずに夕陽を眺め、たっぷりの夕食をいただき温泉に入った。
 翌日また海辺をドライブし、気に入った海岸で、父にはイスを出し、母と私は散歩をした。 帰り道、
 「海に沈むお日様を久し振りに見た。」 と母が言う。
 「子どもの頃、お日様はいつも海に沈むものだった。日は山から昇り海に沈んだ。
東京に来て、品川の海に近いところに住んだんだけど、さいしょの朝、朝日が海から出て、びっくりしたよ。
 日本海側だとか、太平洋側だからとか、考えたことなかったからね。」 と笑う。
 故郷の記憶と、海の夕陽が、その時母の中で結びついた。
 「でもね、夕べは海に沈む日が見えてよかったわ。
 太平洋側でも、千葉の内房は、向きが日本海と同じになるからね。」 と指で千葉の半島の形をなぞった。
 「そうだね」 と私も宙に指で千葉の形を描いた。
 父も終始楽しそうで、良い旅になった。
 次に行く時、もしかしたら、夕陽の海岸にベンチができているかもしれない。

10月のユーコさん勝手におしゃべり
それ以前の「おしゃべり」